2025年8月18日


今回は、福島のお城旅行の最後、会津城。
層塔型五層の赤瓦の天守閣が特徴の東北最大級のお城。

見どころもたくさんあり、もやもや点もありだったが、最終的には、いろいろ学習できた。

なぜ会津にこのような大きなお城ができたのか疑問だったが、テレビのお城番組で、会津が太平洋と日本海、そして東北と江戸を結ぶ経済的にも軍事的にも重要な場所であったからということを知った。

実際、今もその景観を引き継ぐ大内宿は、会津西街道(下野街道)の会津若松近くにある宿場であり、この道は、東北地方の参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な街道だったとのこと。

また、会津城は戊辰戦争で新政府軍と戦い、一か月に及ぶ猛攻に絶えたことでも有名だ。

そもそもなぜ会津軍が新政府軍と戦うことになったのか。

会津城は、保科正之以降「会津松平家」の居城となったが、保科正之は江戸幕府第3代将軍「徳川家光」の異母弟だったことから、東日本有数の親藩の重要拠点であったこと。

その会津松平藩は、江戸幕末期に佐幕派(幕府を補佐する勢力)の筆頭格として「京都守護職」を務め、討幕派から恨みを買い、それにより、戊辰戦争では旧江戸幕府勢力の中核と見なされていた。会津藩は旧幕府軍の立場から最後まで旧幕府軍として徹底抗戦し、城下を巻き込んだ激しい戦いとなったというわけだ。



会津城 - マップ   目次

東西に伸びる舌状台地を堀切で区切った連郭式のお城。地元では一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれている。赤瓦の層塔型五層天守は石垣から上が25mもあり東北最大級のお城。。
至徳元年(1384)に、葦名直盛が東黒川館を築いたのがはじまり。
蒲生氏郷が本格的な近世城郭、七層の天守閣を築いた。
1611年の大地震の後、加藤時代(1627〜)に大規模改修が行われ、現在のような五層の天守閣になった。、
保科正之(1643〜)の命により北国・雪国ならではの低温や積雪に耐えられるように、鉄分を多く含んだ釉薬を用いた赤瓦が会津で開発され、黒瓦から赤瓦になった。以降は明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となる。
戊辰戦争では、約一か月の激しい攻防戦に耐え、難攻不落の名城として知られた。
明治政府の命令で取り壊されたが、天守は昭和40年に外観復元、平成12年に千飯櫓と南走長屋を本格復元し、平成23年には天守閣の屋根の黒瓦を幕末当時の赤瓦に復元した。

 

●西出丸と北出丸
●天守閣
●本丸
●廊下橋・帯曲輪・石垣
●天守内部と南走長屋と千飯櫓
●飯盛山
●大内宿など

     

 

●西出丸と北出丸   ●印はクリックして拡大


西出丸駐車場に駐車。西出丸は今は駐車場として使われていて200台収容可能。西出丸と北出丸は五層の天守閣を建てた加藤時代につくられたもの。お城は東側から続く舌状台地の上に築城されていて、本丸は舌状台地の先端に位置している。その西側の西出丸と北側の北出丸は台地の下に作られているので、高低差が11mあるそうだ。
●会津城マップ   西出丸駐車場

西出丸:北出丸と合わせて、敵の攻撃を防ぎながら、会津藩の将兵や馬が終結して反撃のために出撃する場所。
「ここ西出丸は寛永16年(1639年)に藩主加藤明成が本丸の防備を強化するために整備した郭である。面積は約4300坪あり、西南と西北には隅櫓がおかれ、出丸内には塩硝蔵や蝋、漆などの蔵が置かれていた」

赤べこバリケード   西出丸方面から見る天守閣

北出丸:「寛永16年(1639)加藤明成のとき、北馬出しを出丸に造りかえたもので、本丸を守る重要なものであった。東は二の丸と伏兵郭に、南は本丸に、西は西出丸に濠を隔て相対し、攻防の際には最も重要な位置にあったため城の生命線であった。北出丸に侵入した敵は、三方から殲滅(せんめつ)することができるので、鏖丸(みなごろしまる)とも言われていた」


北出丸雁木 マンホール

 

●天守閣   ●印はクリックして拡大
←太鼓門を入ると枡形になっているが、その向こうに大きな天守閣が見える。

→この鏡石は「遊女石」ともいわれ、石を運ぶときに、石の上に遊女が立って皆を応援してここまで運び込んだといわれる。とにかくそれぞれの石がものすごく大きい!
太鼓門と枡形   鏡石

←枡形を抜けると帯曲輪で、目前に天守閣。
一番古い石垣は天守台の石垣で野面積みで蒲生氏郷が築いたもの。傾斜が緩やかで、裾野が広いのが特徴。隅部を見ると完璧な算木積みになっていない。
この天守閣の石垣は慶長16年(1611)の大地震のときも持ちこたえたのだそうだ。

帯曲輪からの天守閣 ●天守石垣  

→天守台と多聞櫓(走り長屋)の石垣の間に張り出した石垣は、「恐らく天守台石垣が変形したため、それを食い止めるために江戸時代につくったものといわれる。「巾木(はばき)石垣」と呼ばれる」とのこと。
武者走りあるいは相坂   張り出した石垣「巾木石垣」

↑武者走り・相坂:大手門の裏の帯曲輪に作られているV字型の階段(赤矢印)。この向こうの太鼓門のまわりを監視するところで、武者が昇降しやすいように、 一方は上り、一方は下り専門に使用された。
黄色矢印は猪目石。

桃瓦 蒲生家の家紋の鬼瓦

→鉄門: 「帯曲輪から本丸内の奥御殿に通じる表門で、北向きの多門櫓城門である。扉や柱が鉄で包まれていたことから鉄門の名がつけられている。門の石垣の工法は「切込接ぎ」と呼ばれる積み方で、四辺形に加工した石を積む巧みな工法となっている」最も古い天守台の石垣とは異なり近世の工法。

●鉄門側から見た天守   正面の石垣 鉄門

←ボランティアの方は、本当の猪目石は鉄門をくぐってすぐ左のこの石垣にあると教えてくれた(下の赤い点線丸印)。
石にがりがりと縦線模様が入っているのは、白河小峰城でも見たが、これは石垣を美しく見せるための化粧。

鉄門をくぐってふり返ると、走り長屋と天守が見える。→

鉄門横の小さな猪目石   ●鉄門をくぐってふり返ると天守
←保科正之(1643〜)の命により北国・雪国ならではの低温や積雪に耐えられるように、鉄分を多く含んだ釉薬を用いた赤瓦が会津で開発され、黒瓦から赤瓦になった。
→鯱は、歯が金色で、目には2カラットのダイアモンドが埋め込まれているそうだが、ズームで見てみると目の方はよくわからないが、歯は確かに金歯だということがわかる。
赤瓦   金歯とダイアモンドの目

 

●本丸   ●印はクリックして拡大 


←千利休の子小庵が利休亡きあと、会津領主蒲生氏郷に保護されていたときに本丸内に建てられた茶室。

→土塁の上の本丸の南東の角に月見櫓跡。春の桜の時期にはここからの桜と天守閣の写真がいいのだそうだ。確かに位置的によさそうだが、今は桜は咲いていないので残念。

茶室麟閣:りんかく 月見櫓

 

←←東側の土塁の上からは、茶室越しに天守閣が見える

↓荒城の月碑の隣にあるこの石段は、斜めになっていて、長方形ではなく、平行四辺形になっている。

●茶室麟閣側から見た天守 東側の土塁の上

→「荒城の月」は、作詞者の土井晩翠が、鶴ヶ城と仙台の青葉城をモチーフに完成したということから記念の碑が建てられている。碑は、鶴ヶ城のほか、仙台の青葉城、作曲者の滝廉太郎の故郷、大分県竹田城址(岡城のこと?)などにある。大分県岡城を訪れたときに滝廉太郎の像があった。
荒城の月碑 斜めになった石段

←東側の土塁を北に歩いて行くと茶壷櫓跡があり、そこから赤い廊下橋が見える。 →

→ここ、鉢巻石垣の上の茶壺櫓跡は廊下橋に向かって横矢を掛けるため城壁を曲げてある。高石垣は打ち込み接ぎ布積み。

茶壷櫓跡   ●廊下橋と高石垣
→「萱野権兵衛長修(かやのごんべえながのぶ)は国家老として内政の責任を担っていた。慶応4年(1868)戊辰戦争では先頭になって激務にあたった。また敗戦処理に際しては、城明け渡しや藩主父子の助命嘆願に力を尽くした。その結果、藩主は死を許された。戦争責任は家老田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛にあるとされ、田中、神保はすでに死亡しており、萱野権兵衛のみがその罪を一身に背負い切腹した。この碑は昭和9年、有志の手によって建立された」
●本丸から見た天守閣 萱野権兵衛長修の碑  
←会津唐人凧:唐人凧は江戸時代、会津へ伝えられたもの。戊辰戦争の際、籠城した会津藩士の子弟が弾丸降りしきる中、空高く唐人凧を揚げ味方の将兵の士気を鼓舞したことでも有名。

→本丸内唯一の高楼建築「御三階」があった。大広間の玄関でVIPルームだったが、戦いの後、戦闘によって本堂を失った市内の阿弥陀寺へ移築された。
会津唐人凧   御三階跡の説明版の写真
←「旧鶴ヶ城内の小書院前に会ったもので、公園管理の功績があった遠藤十次郎が松平家から贈られたもの」

→「天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639年)に完成した加藤時代の改修後は裏門となっている。本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である」
手水鉢   蒲生時代の表門

 

●廊下橋・帯曲輪・石垣   ●印はクリックして拡大 


←廊下橋:本丸から二の丸へ通じる朱塗りの橋で、加藤時代の大改修まではここが大手口だった。葦名時代には屋根のついた廊下づくりだったため廊下橋と呼ばれるようになったといわれている。橋の両側は20mを超える高石垣で城内で最も高い。正面には枡形の切込石垣、さらに奥には天守が見え、ここからの景色は圧巻!
→左側の鉢巻石垣は茶壺櫓跡で、横矢掛けのため城壁を曲げてある。
●廊下橋と高石垣と天守 高石垣と鉢巻石垣(打ち込み接ぎ布積み)
枡形 帯曲輪の石垣 蒲生時代の表門
石垣の高さは、南側が鉢巻石垣になっていて土塁の上の石垣部分は約4m、西側の石垣は約8m。東側の廊下橋の両側の石垣は20m超え。東側を最も高い石垣にする必要があったのは、そこが城のディフェンスの礎の場所だからとのこと。
南側は鉢巻石垣(石垣部分は約4m) 西側の石垣は8m  

 

●天守内部と南走長屋と千飯櫓   ●印はクリックして拡大 


入城券売り場と赤べこ 天守閣への入口 塩蔵
→若松城で使用されていた軒丸瓦と軒平瓦 「蒲生時代の瓦は凍み割れの問題があったが、この対策として寛永20年(1643)に会津藩氏となった保科正之は陶工に命じて凍み割れに強い瓦を開発させた。この瓦は鉄分を多く含んだ釉薬をかけて焼き上げるため、赤みを帯びている。以後若松城では順次赤瓦へ葺き替えられ、幕末に至るまで全体的に赤瓦が用いられた」 ↑「天守台の石垣は城跡公園内で最も古い石積みと考えられている。内部は空洞になっていて、一年を通じて周囲より冷涼な環境であることから、江戸時代には「塩」を貯蔵しており「塩蔵」と呼ばれていた」
  赤瓦とその説明
天守内は、一階「鶴ヶ城の歴史と会津の遺産」、二階「城主の変遷と国づくり」、三階「幕末の動乱と会津」、四階「会津ゆかりの先人」、五階「展望層から見る会津」の説明と展示がされている。
城主の変遷    

南走り長屋:表門(鉄門)から続いており、帯曲輪と本丸を隔てる重要な位置にある。天守閣から表門をつなぐ走り長屋とともに表門を守り、帯曲輪から本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていた

最上階 走り長屋、鉄門、南走り長屋、千飯櫓  
●城から飯盛山が見える 向羽黒山城跡が見える 西会津方面
天守閣の内部見学のあとすぐ外に出るのではなく、お土産屋を通り抜けて内部をそのまま南走長屋方面に歩くと、平成12年に本格復元された南走長屋と千飯櫓の内部が見られる。中には大河ドラマ「八重の桜」の俳優陣の衣装などが展示してあった。千飯櫓で外に出た。
走り長屋の内部   八重の桜の俳優陣の衣装
狭間から銃を向けているところ(石落とし) 千飯櫓から外に出た ●千飯櫓から出たところから見た天守

 

●飯盛山

  ●印はクリックして拡大

飯盛山は右図のA→D→B→Cの順にまわった。
滝沢本陣は参勤交代や領内巡視の際の休息所。戊辰戦争では、藩主松平容保が指揮をとり、白虎隊も出陣した。弾や刀傷の跡が残っている。
次はその角で曲がって細い道から本参道に出る。

●飯盛山マップ

滝沢本陣

本参道を歩く 厳島神社の鳥居 戸ノ口堰洞穴:とのぐちせきどうけつ
戸ノ口堰洞穴:猪苗代湖の水を、会津地方に引くため掘られた洞穴。猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら20名は、鶴ヶ城を目指して、この長さ約150メートルの洞穴を潜り、命からがら、飯盛山の中腹へと至った。
戸ノ口堰洞穴の説明版 階段を上るとさざえ堂
さざえ堂は1796年に建てられたと言われる高さ16.5m、街道のついた六角三層の仏堂。正面から螺旋状に右回りで上り、頂上の太鼓橋を超えると左回りの下りスロープになっていて背面出口に通じる。上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできる。このような構造は木造建築として非常に珍しく、世界唯一の記帳な建物。

 

龍が巻き付いている

●会津さざえ堂
当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って壁面に設置されている逗子(ずし)の中に高さ70cmほどの西国三十三観音像が一体ずつ安置されていて、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていた。
天井 一方通行の通路
さざえ堂の裏側を通って白虎隊士の墓へ。「戊辰戦争のおり、16〜17歳の白虎士中二番隊が戸ノ口原合戦場から退却し、滝沢峠の間道を通り、戸ノ口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣は黒煙の中に見え隠れして、「城は陥落したか、今は主君のために殉じよう」と全員が自決した」

白虎隊士の墓   白虎隊十九士の墓

→飯盛山にたどり着いた白虎隊全員が自決したが、1人だけ生き残った 飯沼貞吉 によって、白虎隊の忠義と悲運の物語は広く人々に知られるところとなった。

↑飯盛山で自刃した士中白虎二番隊19名の墓。
白虎隊が黒煙の中に見えた鶴ヶ城だが、じつは、このとき、鶴ヶ城は焼けておらず、城下に放たれた火による煙が城の上にたなびいていただけであった。結局籠城1ヵ月後、松平容保は降伏し、会津戦争は終わった。
  飯沼貞吉の碑  
白虎隊士自刃の地→ ●→見ている方向にお城が小さく見える →拡大でお城が見える
↑白虎隊士の墓から少し下りていくと「白虎隊士自刃の地」。かなり離れているが、少年像が見ている方向にお城が小さく見える。炎上する城下を見て最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱をうけるようなことがあれば、主君に対して大変申し訳なく、祖先に対しても申し訳ない。この場は潔く自刃し、武士の本文を明らかにするべき」との決断にいたったという。
  参道(階段とスロープコンベア) 土産物屋のあわまんじゅうが美味しかった

 

●大内宿など   ●印はクリックして拡大
福島県南会津にある「大内宿」は、江戸時代に会津西街道(下野街道)の会津若松と日光今市を結ぶ重要な道の宿場町として栄えた。
現在も江戸時代の面影そのままに茅葺屋根の民家が街道沿いに30軒以上建ち並び、国重要伝統的建造物群保存地区になっている。この景観を引き継ぐために店舗兼住居として生活している。
大内宿 お蕎麦屋さん
天候や各家都合により営業時間が早まる、もしくはお休みの店舗もあるようで、ここに着いたのが午後2時半ごろだったが、蕎麦屋などはすでに閉まっていた。午前中に行くのがベストのようだ。後でわかったのだが、Webに各店舗の営業予定表のようなものもあるので、確認していけばよかった。見晴台から大内宿全体が見下ろせる。→→

  お食事処(栃餅) ●大内宿見晴台から

←会津市内で元祖輪箱飯(前菜2品・味噌汁・お新香付)の会津セットをいただく。ネギをお箸代わりにいただく会津蕎麦と五種輪箱飯(ぜんまい、茸、蟹、鮭、玉子焼き)。

→戊辰戦争の際、新政府軍と土方歳三率いる新選組を中心とした旧幕府軍が激突した古戦場。

    母成峠古戦場

 

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