2024年3月30日

安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582)年6月に焼失した。「天主」(安土城のみ「天守」ではなく、「天主」と呼ばれる)のないお城は、天守のあるお城を訪れるときよりテンションがどうしても低めになり、予習なしで行くと、「石垣だけのお城だった」で終わってしまうかもしれない。

当時人々の度肝を抜いた豪華絢爛の五重の天主は残っていないので、本や資料を参照するしかない。でも安土城は石垣で築かれた最初の本格的なお城で、それが、当時の高い建築技術により、そして、発掘調査や復元整備のおかげで400年以上にわたって崩れることなく、ほぼそのまま残っている。

歴史的にも非常に重要なので、雑誌、『決定版、日本の名城』などを参考に特に石垣に焦点を置いて歩いてみた。実際、安土山の麓から山頂まで石垣が使用されていて、その規模の大きさにびっくり。また、場所によって石垣の特徴が異なり、登りながらその先にどんな石垣が待っているのか、それを見つけるのも楽しかった。

今回は小谷城も訪れる予定だったが、天候が悪く山に登ることができなかったのは残念。また、2022年の紅葉時に「穴太衆」の坂本や近江八幡を訪れたときには、その途中でちょっとした悲劇が起きて中断してしまったが、今回は安土城とともに、2年前の坂本や近江八幡も簡単にまとめた。




安土城跡   目次

地上6階・地下1階の当時としては傑出した構想の大建築。これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だった。
1576年(天正4年)、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、築城が始まる。築城から3年後1579年に天主が完成して信長が移り住んだ。
その3年後に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に、天主・本丸が焼失した。
それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護のもと、信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールした。しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となる。

その後江戸時代を通じて信長が城内に建てたハ見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになる。

 

●安土城郭資料館
●大手道と家臣邸

●黒金門へ
●中枢部
●三重塔周辺
●門前町、坂本
●近江八幡
●とび太くんたち


     

 

●安土城郭資料館   ●印はクリックして拡大
安土山 安土城郭資料館(家紋) 安土城ひな形1/20(お城から信長)

↑まずは「安土城郭資料館」に寄って、日本百名城のスタンプを押してから、いざ安土城跡へ。

→マンホールに刻まれた安土の地名が「ANZUCCI」となっているが、これは宣教師や天正遣欧少年使節が当時のヨーロッパに伝えた信長の居城の建つ「安土」の表記のようだ。

織田信長の南蛮甲冑 マンホール

 

大手道と家臣邸   ●印はクリックして拡大

←大手口の両側には高さ約1.8mの石垣が長く延びている。

●伝大手口 ●入口

←幅約6〜7mの、この広い大手道は直線距離で約180m続く。一段一段の段差が高く体全体を使わないと登れない。両側には幅約1mの側溝があり、その外側に高さ約3mの石塁がある。
大手道を登り始めてすぐ右側に伝前田利家邸跡。→
左側には伝羽柴秀吉邸跡。↓

●伝大手道   ●伝前田利家邸跡
  伝羽柴秀吉邸跡の下段と石垣  

↑伝羽柴秀吉邸跡。「上下二段に分かれた曲輪。上段には主殿があった。南側には下段に至る石垣があるが、高さ約1〜3mの野面積みの石垣を踊り場を設ける形で3段(前田邸は2段)に分けて積み揚げて、全体として「高石垣」を実現している(1段の高さは160cmぐらい)。また出隅や入隅を設けて石垣の強度を維持している。下段には櫓門や厩があった」

●羽柴邸跡図   主殿があった上段
←大手道の側溝近くに石仏が見られる。築城の際、大手道の石材として使われたもの。石材の中には、石仏や墓石なども含まれていた。石仏を石段に使うとはちょっと考えられないが、これが発見当時の状態だそうだ。
石仏   ●突き当りで振り向く
←大手道の突き当りを左に曲がる。そのちょうど角に伝武井夕庵邸宅跡。背後は草木に覆われ見にくいが、ここでは、何段かに分けず、背後の地山に石材を埋め込むようなかたちで、小さな石材を積み上げて高石垣が詰まれているとのこと。→
伝武井夕庵邸跡   ●伝武井邸跡の石垣

 

●黒金門   ●印はクリックして拡大 



信長嫡男、織田信忠邸跡 黒金門への石段 右の石柱には森蘭丸邸跡とある

黒金門へのまっすぐな石段の途中に森蘭丸邸跡があった。信長嫡男の信忠邸よりも上にある。
←中枢部への入口である黒金門は桝形になっていて、明らかにこれまでよりも大きい石材が使用されている。→

●伝黒金門跡

大きい石材を使用している

 

●中枢部   ●印はクリックして拡大 

黒金門を抜けると正面に二の丸西面の高石垣(野面積み)が現れる。そこを左に曲がって本丸方面へ。→

 

●主要部の地図 伝二の丸西面の高石垣の向こうへ
仏足石は、お釈迦様の足跡を表現したもので、古代インドでは、仏像に先立ち崇拝の対象とされていたそうだ。
その仏足石も石仏と同様、石垣に使われていたとのこと。この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものだそうだ。→


  仏足石(足の裏) 二の丸へ(二の丸)
↑二の丸は実は本丸の一部で、ここに表御殿があったそうだ。
←手前に直径3mぐらいの蛇石が置かれているので、後ろの石垣の大きさがよくわからないが、伝二の丸南面の石垣は安土城内で最大の大型石材を積んでいるとのこと。
←←二の丸跡の向こうに信長公廟がある。天主台から見下ろすことができる。
織田信長公廟 ●伝二の丸南面の石垣と蛇石  

←天主の石垣の隅部は直角にならず鈍角になっている鎬(しのぎ)積み。また、反りを持たない直線的な70度ぐらいの急こう配。

→本丸には南殿があり、現称二の丸の「御座敷」、現称三の丸の「江雲寺御殿」とともに、本丸御殿が構成されていたとのこと。

●隅部が鎬積   本丸跡

←天主台穴蔵への進入口。天正19年(1582)に焼失後、昭和14年(1939)に発掘されるまで焼土に埋もれていたとのこと。

→天主台を登ると、背丈ほどの石垣で囲まれた平坦面があって天守礎石が碁盤の目状に並んでいる。この部分は天主の穴蔵(地階)部分。

●天主台登り口の石垣   天主台礎石

→天主台を囲む石垣の上から市街地を見下ろす。この日は晴れていたのだが、黄砂がひどくてどんどん霞んできた。

→→織田信長次男信雄の家系四代の供養塔が二の丸直下の伝長谷川邸跡の郭に建立されている。

  天守台から見下ろす 織田信雄公四代供養塔

 

●三重塔周辺 ●印はクリックして拡大 



帰路はハ見寺方面へ 石段を上っていく ●三重塔
三重塔の隣に、信長によって安土城内に創建された寺院、ハ見寺(そうけんじ)があった。本能寺の変の直後の天主付近が炎上した際には類焼を免れたが、江戸時代末期に焼失してしまった。その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺地を移し、現在に至る。

  ハ見寺本堂跡

●本堂跡からの眺め

二王門 林の中の道は伝秀吉邸跡につながる 伝徳川家康邸のハ見寺(仮本堂)

 

門前町、坂本2022/11/23 ●印はクリックして拡大 

←大中小の自然石を「石の声を聴け。石の行きたいところに行かせてやれ」のもとバランスよく積み上げて堅牢な石積みを造る、坂本の石工集団「穴太(あのう)衆」は、延暦寺の造成や坂本の歴史とともに技術を磨き安土城をはじめとする城郭や寺院などの建築で活躍した。

門前町坂本の石垣と小水路 穴太衆積みの石垣  
←全国に3,800社余りある「山王さん」の総本宮。平安京の表鬼門にあたる場所に社殿があり、平安時代から都の守護神として、また比叡山延暦寺の護法神として信仰を集めてきた。
日吉大社の山王鳥居   日吉大社の国宝の西本宮の本殿

 

近江八幡(2022/11/25) ●印はクリックして拡大 

近江八幡は、豊臣氏2代目関白、豊臣秀次が開いた城下町。八幡堀は秀次の居城であった八幡山城の堀で、琵琶湖につながり人や物資が行き交った。堀沿いに石積みや土蔵が並ぶ。紅葉とともに水面に映る景色が美しい。

●八幡堀   ●八幡堀

2022年11月、近江商人屋敷やヴォ―リス建築巡りをしようとしていた矢先、道でころんで肘を骨折し、旅行は彦根城に行く前に中断となった。。。

→建築家ヴォ―リスが創業した「近江兄弟社」のメンターム資料館。


  近江兄弟社メンターム資料館

八幡山城

近江八幡は江戸〜明治時代に活躍した近江商人の拠点として発展した町でもある。「三方よし」とは、「売り手よし、買い手よし、世間よし」を表し、古くから、企業の社会的責任を果たしてきた近江商人を象徴する言葉。日本を代表する企業には、伊藤忠商事(150年)、ふとんの西川(450年)、高島屋、ワコール、日本生命などがある。
  2024/03/30ラ・コリーナ近江八幡 2024/03/30黄砂で遠くが霞む琵琶湖

 

●とび太くんたち   ●印はクリックして拡大

「ティファニー」のとび太くん(近江牛) 千成亭のとび子さん 彦根の自衛官のとび太くん
交通安全啓発看板として知られているとび太くん(飛び出し坊や)は地滋賀県東近江市が発祥の地といわれ、今年で50歳。町で見つけたとび太君を集めてみた。

とび太くんのいる、ティファニーレストランでいただいた近江牛のステーキは最高だった。
ハリエのとび太くん たねやのとび太くん
鰻屋のとび太くん メンタームのとび太くん 近江八幡のマンホール

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