2025年3月26日

岡山のお城見物3日目は現存12城のうち唯一の山城、「備中松山城」。二重二階の望楼型天守は標高約430mの小松山山頂に建ち現存天守では国内最高所に位置する。

まずは、備中松山城の向かい側の山中にある展望台の方からお城を眺める。もちろん早朝でもないので、雲海に浮かぶ幻想的な「天空の山城」は見えないが、お城が向かいのあんな高い山の上にあり、その麓には高梁の町が広がり、城下町として栄えていた時代にタイムスリップしたような気がした。

城見橋公園からふいご駐車場へ行く車の待機が長くなりそうだったので、お城を後回しにして吹屋に先に行くことに。15時前に再び城見橋公園まで戻ってきてもまだ待機状態だったので、ふいご駐車場まで車道を歩いて15分後にふいご駐車場に。そこから山道を歩くこと15分ぐらいで大手門に到着。

備中松山城は、これまで訪れた山城よりも2倍以上の高さ。このような地形的な条件から、実際は山裾にある「御根小屋」が松山城主の日常の居館で、領内を治める政庁だった、つまり、御根小屋が実質上の「城」の機能を果たしていたということだが、時間がなくて訪れるのは断念。頼久寺にある小堀遠州作の枯山水庭園も断念で残念。

山上のお城で圧倒されたのは、大手門の岩盤と一体化した迫力ある石垣群。三の丸から見る何重にも折り重なる低石垣群も印象的。二重二階の天守や二重櫓は岩盤の上に建っていることで存在感が強調されている。そして働き者の猫城主サンジューローはかわいかった。

同じ日に訪れた吹屋はベンガラと銅の町。石州瓦の町並みは島根の月山富田城からも見えたが、ここでは壁の漆喰も紅色。吹屋の町並みは時間がゆっくり流れ、異世界だった。



備中松山城 - マップ   目次

標高430mの小松山山頂に立つ備中松山城は、小規模だが現存天守12城のうち、唯一の山城。備中松山城は曲輪の配置は、本丸・二の丸・厩曲輪・三の丸と連なり、雛壇状の曲輪配置で、連郭式の山城。天守は二重二階。西面に附櫓(廊下)が附属する複合式望楼型。天守が雲海に浮かぶ絶景から「天空の城」と呼ばれている。

曲輪や堀切が残る「中世城郭」と、建物や石垣・土塀が残る「近世城郭」の両方を見ることができる。中世山城としての曲輪は、創築期のもので臥牛山主峰の標高約470mの大松山に築かれた。近世山城は小松山が中心施設となり、この小松山城が通常、備中松山城と称される城。

13世紀中ごろに築かれた山城を、関ケ原の戦い跡に毛利輝元から、小堀遠州(作庭家)が整備し水谷勝宗が大改修した近世城郭。水谷家は3代しか続かなかった。その後、あの忠臣蔵の浅野長矩が一時城を預かるが、城の受け渡しで水谷藩ともめごとがあり、大石内蔵助が交渉し、無血開城となった。その後大石内蔵助はここに1年ぐらいいた。城主は全部で15回も替わった。

 

●備中松山城展望台
●城見橋公園から登城
●大手門〜天守
●天守内部
●二重櫓など
●吹屋

     

 

●備中松山城展望台   ●印はクリックして拡大
早朝ではないので雲海は期待できないが、向かい側の山の展望台から備中松山城を眺める。標高430mあるのでかなり高い所にお城があり、その麓には城下町が広がっていることがよくわかる。
備中松山城展望台へ 展望台
●天空の山城 ズームで天空の山城 市役所からのお城(仕切弁)

 

城見橋公園から登城   ●印はクリックして拡大

桜は一分か二分咲きぐらいで、今はまだ梅が満開の状態。
小松山に築かれた近世山城、備中松山状を目指す。
まずは城見橋公園まで車で行く。

臥牛山   桜は一分〜二分咲き

城見橋公園からふいご峠までの登城バスは今は閑散期なので運行していない。ふいご峠まで車で行けるが、ふいご峠駐車場は車の台数が限られているので、ここで待機しなければならない。待機している車が多かったので、お城に行く前に先に「吹屋」に行くことに。
梅などが満開 城見橋公園
「吹屋」見学後、15時過ぎにまた戻ってきたがまだ車が待機していたので、ここから、ふいご峠駐車場まで歩くことに。登山道を長く歩かないといけないと思っていたら、なんと車道を歩くこと15分ぐらいでふいご峠に着いた。朝、来た時にちゃんとチェックして歩いておけばよかった。
ふいご峠駐車場(車道歩き) 登城口
↑ふいご峠駐車場の先にある登城口からお城へ上っていく。ここから大手門までの道は山道。ところどころ「登城心得」があり、背中を押してくれる。でも15分もしないうちに大手門跡に到着。
中太鼓櫓跡:ふもとに御根小屋があって、城主はふもとで日常生活や政治をしていた。御根小屋と天守を繋ぐ連絡網がこの太鼓櫓で、太鼓の合図で情報を伝達していた。
山道を歩く 登城心得で背中を推してくれる
中太鼓櫓跡(石の階段が続く) 中間地点 到着(階段)

 

●大手門〜天守   ●印はクリックして拡大 

←圧巻!何重にも折り重なる高石垣だけでもすごいのに、それが岩盤上に築かれていて、岩と一体化している。ずっと奥には石垣が何重にも折り重なっている。石垣と岩が織りなす景色に圧倒された。

→NHK大河ドラマ『真田丸』のオープニングで使用された場所が説明されている。

●大手門跡 大河ドラマの使用された場所

←山城としては珍しい土塀がある。手前が現存土塀(1683年からある)で、奥(少し凹んだ部分から向こう)が復元された土塀。

→手前の三の丸の石垣は高さ3m以下の低石垣で、松山城ではこの高さの石垣が大半を占める。三の丸、厩曲輪、二の丸の石垣が折り重なるがいずれも約5mの低石垣で、備中松山城らしい景観。

三の平櫓東土塀

●三の丸から見る折り重ねの石垣
周囲は3mほどの低石垣の黒門跡 厩曲輪 二の丸南面の石垣
↑ここの石垣は野面積で城内最古の石垣である、という説明のほかに最新では、「この二の丸南面の石垣では、毛利時代から現在までの積み直しの変遷を見ることができる数少ない石垣面。一番下から、立石を置いた毛利期の石垣、自然石を積んだ小堀期の野面積の石垣、割石を積んだ水谷期の打込接の石垣、そして一番上は幕末期の積み直しの石垣」という説明がある。
二の丸鉄門跡(景色) ●二の丸から本丸を見上げる

↑二の丸鉄門跡には、大型の鏡石や方形の大型立石と横石が配置されている。 二の丸鉄門跡を入ると、南北に長く広がる城内最大の曲輪、二の丸。ここからは天守、五の平櫓、六の平櫓、南御門が見える。誰もがカメラを向けるビュースポット。
→二の丸にはトイレとして利用したのではないかと言われている雪隠(せっちん)跡がある。

雪隠跡 ●天守とサンジューロー


↑南御門を入ると真正面には岩盤に積み上げられた石垣の上に築かれた二重二階の天守が見える。そして、手前には城主「サンジューローがいる。

←岩盤上に築かれた天守台の石垣は打込接乱積。

「疲れたニャン」(記念撮影場所) 天守台の石垣も岩盤上に築かれている  
↑「サンジューローは2018年から住みついた大人気の猫城主。名前は地元出身の新選組隊士、谷三十郎からついた。通常は10時と14時に城内を見回っている」
サンジューローさん、本日もお疲れ様でございます。


←天守は二重二階で高さ約11m、一階平面は約14X10mと小規模だが、山上の最高所の岩盤に石垣を積み上げた上に築かれていることで、見た目の高さと存在感が強調されている。西面に附櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守。
  ●天守  


天守東側 天守北側 水谷氏の左三つ巴の家紋

↑天守東側は囲炉裏のある突出部。
↑天守一階の入母屋造りの北側突出部は装束の間。

←→一旦東御門から出て二重櫓を見て、また東御門から本丸に入ろうとすると、本丸には誰一人おらず、閉城時間なので本丸に入らないようにと言われた。時間は16時15分。最終入城時間は16時だったようだ。

本丸には誰もいなくなっていた   入城・閉城時間

 

●天守内部   ●印はクリックして拡大 

一階は中央部に大広間があり、周囲に武者走りがあった。

←正面のシンボル的な唐破風付出窓の格子窓:正方形の角材の角を外側に向けて並べられた連子窓。外からは内を見えにくく、内からは広角に敵兵の動きを見ることができる。
1階 武者窓:連子窓  

狭間 囲炉裏 東側突出部の屋根裏骨組み

↑東側突出部には囲炉裏がある。これは籠城時の暖と調理用と伝わる。

←北側背面の突出部には籠城時の城主一家の居室、装束の間がある。床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも侵入できないように工夫がされている。戦いに敗れ、落城の時は城主一家の死に場所でもある。

装束の間 踊り場のある階段
→天守二階の御社壇:天和3年(1683)に水谷勝宗が勧請した。天守内部に守り神として宗教的施設を設ける事例は見られるが、これほど多くの神々(摩利支天、天照大神、八幡大菩薩、毘沙門天、成田大明神など10の神々)を祀った事例は備中松山序天守のみ。

二階

ニ階の北側に御社殿

 

●二重櫓など

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東御門の左側の階段を上っていくと、天守の背後にある二重櫓に着く。二重櫓は天守と同様に重要な現存建物。天守後方の守りを固めている。懸魚は梅鉢懸魚。
東御門:「本丸東側の棟門。城門には不向きな引き戸となっているのは、本丸が普段無人となっており、外から施錠していた証拠とされる」
城内からの東御門(引き戸) ●天守側から見た二重櫓

東御門を出てすぐ左側の石垣は曲線を描いていて美しい。個人的にはお気に入りの場所。隅石は算木積みで「扇の勾配」のように見えるが、ここは昔からのものではないのか、あまり説明が見つからない。その向こうに曲がる石垣とは鋭角になっていて、そのほとんどが土や苔、草木で覆われている。

東御門 曲線を描く石垣(算木積みと扇の勾配?)

本丸の東側を通って二重櫓へ 腕木門 ●二重二階櫓

↑さらに奥に歩いて行くと二重櫓が見える。ここからは岩盤上に建っているのがよくわかる。
腕木門:天守と二重櫓の間にある。こちらは開き戸門。本丸の裏門に当たる。ここを下りていくと搦手門跡の前に出るが、搦手門の方は気が付かなかった。
←二重櫓の奥にあるのが後曲輪で、さらに向こうにあるのが九の平櫓跡。

後曲輪とその向こうに九の平櫓跡 ●本丸東側

 

紅の町「吹屋」

  ●印はクリックして拡大

高梁市の標高550mの山間に突然現れる赤く染まった町並み。近世以降、銅山として発展し、さらに良質な弁柄(ベンガラ)の製造で繁栄した、鉱山町、吹屋。銅を産した鉱山の副産物として造られたベンガラは赤色顔料で、九谷焼などの伝統工芸品を鮮やかに彩った。

赤く染まった石州瓦の屋根とベンガラ漆喰の家が連なる町並みを散歩してみた。

タンポポとオオイヌノフグリがいっぱい ●町並み

赤唐辛子の佐藤紅焦点 「おみやげ あさだ」 壁はベンガラ漆喰、屋根は石州瓦

←日本最古級の木造校舎といわれる旧吹屋小学校。なんと平成24年(2012)まで現役最古の木造校舎として使用されていた。


↓旧片山家:1759年の創業以来、220年余りにわたって、ベンガラ製造と販売を手がけた老舗。奥にはベンガラ製造の作業場と蔵も見られる。

●旧吹屋小学校   現役の郵便局(ポスト)
旧片山家 ベンガラ蔵・入れ場 「べんがら屋」
→「山神社は江戸時代中期の享保年間に地元の銅山経営者である大塚家が勧請した。銅山の守護神である金山彦命などが祀られている。明治6年以降は、三菱商会が銅山を経営したことから、同社の鳥居や玉垣には、三菱のマークが刻印されている」
吹屋の町の平日は観光客も少ないため、カフェや施設も閉まっている所が多いのが残念。
山神社跡(鳥居に三菱マーク) 玉垣に三菱マーク
山神社の上からの眺め ベンガラ漆喰が美しい(喫茶楓) ●お店やカフェもある

 

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