2025年11月25日


広島城がもうすぐ改修に入るということで、その前に訪れたかったので、今回は広島の地域のお城の見学にやってきた。

一日目は福山城。もともと福山城があったところに福山駅ができたということで、駅を出るやいなや高石垣。また、一度に複数の櫓と天守まで見えてしまうというこの惜しげもない演出に最初から圧倒されてしまった。

滞在したホテルも東側の道を隔ててすぐそこ。東側の櫓や天守が手に届きそうな位置。月見櫓と鏡櫓と天守を一緒にカメラのフレームに収めようとすると入らないぐらい近い。

福山城は南向きに築かれた城なので、本当は、駅の南にある高価なホテルから見るほうが景色はいいのだろう。ちなみにホテルの朝食を食べていた人たちの半数以上がインバウンドの人たちだった。

伏見櫓など伏見城にあったものが移築されている櫓が多いのは、伏見城は豊臣秀吉が政権の本拠のお城として整備した後、家康が城主となったときもあり、江戸幕府にとって大きな意味のあるお城なので、福山城水野家が伏見城にあったものを将軍からプレゼントされたということで歴史的な価値があるということらしい。

五重五階地階一階の天守も形が整っていて、火に強い究極のお城を目指した白漆喰の総塗籠(北側は鉄板張り)。しかも様々な破風で飾られ、最上階は華頭窓や高欄が設けられ、至れり尽くせりの素晴らしいお城。空襲を受けなければ旧国宝でもあった現存天守を今でも見ることができたのに、残念。。。

当日(火曜日)は月曜日祝日の次の日で休館。それだけではなく、今週はなんと水、木、金の3日間もお休み。ということで博物館となっている天守の中には入れなかった。



福山城 - マップ   目次

福山城は、近世城郭における天守建築が技術的に最も発展した時期の天守。五重五階地下一階の層塔型天守。付櫓と付庇を設けた複合式天守。7基の三重櫓や16基の二重櫓を備える。

広島藩の福島正則が江戸幕府に無断で居城の広島城を修繕したため改易に処されたあと、1619年(元和5年)に福山藩主となった水野勝成(家康の22才年下のいとこで大坂の陣で武功を上げた)が、1622年に西日本一の城として築いた平山城。西国の有力外様大名に対する抑えとして、一国一城発布後に例外的に築城が認められた。近世城郭において、最後の大規模な新規築城だった。

その後、水野家5代、松平家1代、阿部家10代と続く。阿部家7代の阿部正弘は江戸幕府の老中首座として、政情が揺れる中、安政の改革を行い、身分にかかわらない人材登用や人材育成に力を入れ、日米和親条約の締結にかかわった。

1873年廃城となったが、天守、筋鉄御門など5棟の建築物が残された。1931年福山城天守が国宝に指定。1933年伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿も国宝に指定。1945年の福山空襲により、天守と御湯殿が焼失。1966年に天守が鉄筋コンクリート構造により再建。2022年リニューアルオープン。

 

●駅前のお城
●本丸の櫓たち
●天守
●その他

     

 

●駅前のお城   ●印はクリックして拡大


←駅の北出口を出るといきなり正面に高さ12mの石垣のお城。

「明治時代、本丸を除く周辺の土地は払い下げられ、鉄道が敷かれた。かつて内堀や三の丸だった場所を日々、3万人 の乗客が行き交っている」そうだ。というわけで駅の真ん前にお城があるというより、お城の中に駅があるというべきかも。

福山駅からお城まで   福山駅
駅から10歩でお城 ●南側のこの階段を上がってお城へ ●駅前から月見櫓、鏡櫓、天守
→「山を造成し雛壇状に本丸・二の丸・三の丸の三段の石垣で構成された平山城は、江戸時代の軍学では「一二三段」と呼ばれ、最も望ましい城の形態とされていた。通常、外様の大城郭でも三の丸は石垣で作らず、土塁のままの場合が多いが、福山城は北側を除く三の丸も石垣で築いた城であった」
●ホテルから月見櫓と鏡櫓 ●ホテルから天守方面

駅ホーム2階から見たところ。新幹線には乗らないので、3階には行けないが、おすすめの撮影場所は、新幹線の上りホーム
の東寄り、14号車が停車する付近らしい。そこからは城の立体的な配置が見渡せるそうだ。
駅ホーム2階から  
月見櫓、鏡櫓、天守のライトアップ 天守のライトアップ
狭間からライトが 太鼓櫓のライトアップ マンホール

 

●本丸の櫓たち   ●印はクリックして拡大

伏見櫓:福山城本丸南西に位置する。水野勝成の福山城築城の際、京都の伏見城松の丸にあったものを将軍秀忠が移築させた。武具庫として使用されていた。内部には敵の侵入を防ぐ、防御システムを完備。三重三階構造、一階と二階は同じ幅、三階は小さめになっている望楼型。特徴は、柱や梁などの構造材が壁から見える工法である真壁造り(しんかべづくり)と呼ばれる一階と二階の外壁の意匠。

  ●伏見櫓 伏見櫓北側

筋鉄御門:本丸へ入る正門。福山城築城の際に伏見城から移築されたもの。扉や柱の角に数十本の筋鉄を鉄製の鋲で打ち付けていることからこの名が付いた。柱と梁には丈夫なケヤキが使われている強固な門。上には本丸防御のための格子窓がある。 屋根瓦には水野家の家紋である「水野沢潟(みずのおもだか)」が使用されている。

筋鉄御門 筋鉄
筋鉄御門は、廃条令の取り壊しを免れ、1933年に伏見櫓と御湯殿とともに旧国宝に指定された。
伏見櫓や鏡櫓とともに1945年8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となり1951年から解体修理が行われた。

  水野家の家紋「水野沢潟」 桜の紅葉がきれい!(落ち葉もきれい)

太鼓櫓:城内に独立した鐘楼を設ける例はいくつかあるが、多聞櫓の動線上に設けられた櫓としては全国でも珍しい。西側の棟は火灯櫓へ続く多聞櫓の一部である。
はじめは鐘を吊り、太鼓を懸け、時の鐘と半時(1時間)の太鼓を打っていたといわれる。現在、鐘搗きは自動化され午前6時、正午、午後6時、午後10時の時を告げている。

太鼓櫓の南側 太鼓櫓の北側(東側)
御湯殿:国宝だったが空襲で焼失。1966年、木造により外観復元されたもの。藩主が使用するための風呂場。本丸御殿と廊下続きだった。お湯につかるお風呂ではなく、当時はサウナのような蒸し風呂。お湯殿を下から見ると、石垣上にせり出していてめずらしい懸造りになっている。福山城以外では仙台城にしかないめずらしいもの。→
御湯殿(ここは桐の家紋)   南側の下から見たところ



月見櫓は福山城本丸南東隅に位置する二重櫓。これも伏見城から移転されたもの。明治に取り壊されて1966年に外観復元された
北側には付櫓を備えている。その名の通り月見を目的とした櫓。藩主等の到着を見極める役割をなしていたという説明もある。南面には唐破風、石落としがある。
月見櫓(南側) 月見櫓南側の下から見る(唐破風)  

水野氏の家紋「丸に抱き沢潟」 月見櫓南側の石垣に刻印がいっぱい 南東隅の月見櫓と鏡櫓
本丸東の中央に位置する鏡櫓は、他からの移築ではなく、築城時の新築。一階東側の屋根には小さな破風を設け、屋根の収まりがきわめて特徴的な外観。1873年の廃城で取り壊されたが、1973年に外観復元。福山城博物館の文書館となっている。

  鏡櫓西側 鏡櫓東側

本丸御殿跡: 福山城本丸に所狭しと甍を並べた御殿は「本丸御屋形」と呼ばれた。1873年(明治6年)の廃城により取り壊され現在は礎石を残すのみ。建物の配置、室内や板戸に描かれた画題は、二条城二の丸御殿や名護屋城本丸御殿と共通する点が多く、極めて形式的なものである。

→本丸に現存する唯一の井戸。

御殿跡   黄金水
←伏見櫓(月見櫓)の完成度の高い算木積み。
→この日は天気予報で雷雨になると言われていたが、西の空が暗くなってきて遠くでゴロゴロ鳴り出した。風も強くなり大粒の雨が降り出したので、一旦隣のホテルに戻って中断。雷雨はすぐに過ぎ去ったので、また戻ってきて見学を続行した。

伏見櫓(月見櫓)の算木積み   西方向から雷が

石垣は、「瀬戸内地域で産出する花崗岩を主とする石材が用いられ、その表面を「割石」加工し、ハツリを施して平坦に調整している。積み方は「打込接」の「布積」と「乱積」技法を併用して構築されており、隅は完成度の高い「算木積」。
←駅前の石垣は空襲により石垣が赤く変色し、表面が剥離し、角が取れて丸みを帯びており、高温の炎に長時間あぶられたことが伺える石垣。
石垣のおもしろい表面加工 空襲を受けた石垣  

 

●天守   ●印はクリックして拡大 

近世城郭における天守建築が技術的に最も発展した時期の天守。各階の廊下が上階へ向け規則正しく減っていく層塔型天守。天守の高さは64.42m。

天守の付属施設として、東側に二重三階の「付櫓」を設け、南側には入口となる「付庇」を設けている複合式天守

●天守南側 ●天守西側
北側以外の壁が漆喰の塗籠なのに対して北側のみは5層を除く全面に鉄板を張っていた。他に例をみない。その目的は、風雨の備えであるとともに、天守の位置が本丸の北側寄りに建てられていて、北側の守りが手薄であるため、外部から直接天守が攻撃されることへの備えだった。
●天守北側   ●天守東側

一部の破風には珍しい六角形の銃眼(狭間)があり、内部の二階以上に床の間を設け、最上階には上段や華頭窓、廻縁を設けている。
福山城の天守は、1933(昭和8)年に国宝に指定され、当時日本に18しかない天守が現存した城だった。1945年の空襲に遭うまでは。現在の現存天守の数は12。

狭間の数は左の写真のように天守の破風にある六角形のものが7つ、それ以外に丸が95、四角が60あるようなのだが、これは土塀や伏見櫓にある狭間のようだ。天守内部は、本日は祝日の次の日なので休み、しかも明日からの3日間も休み、つまりこの週はずっと休みということなので、内部は見えないのだが、恐らく内部には六角形のもの以外、破風はないのかもしれない。

めずらしい六角形の狭間

←お城の本などを見ると高欄は赤だったが、今見ると黒色。これは築城400年記念の「令和の大普請」と呼ばれる2022年の改修工事で、歴史考証に基づいて本来の姿である黒色に復元されたため。

    水野氏の家紋「丸に抱き沢潟(おもだか)

←この松の形が趣があっていい。写真を撮りたくなってしまうスポット。

→城郭建築の集大成と言える完成された構造で築かれていた旧天守は空襲により焼失したが、この天守の柱を支えていた礎石が、天守焼失後も天守台穴蔵の中に残されており、1966年の再建にあたって、天守北側の現在地に、同じ配置のまま180度向きを変えて移設され、現在に至っている。

●絵になる松と天守   旧天守の礎石
●右に曲がると→ 東上り楯門跡 枡形→ →枡形を経て天守へ

←福山城ではあまり見ない半円状の石垣。落し積み石垣が多くその結果、半円状の形となり、ニッコリマークに見える石垣が多かった白河小峰城の石垣を思い出す。

→桜の花の季節ではないが、桜の葉の味のある紅葉が石垣とマッチして、その先に美しい天守が鎮座しているという絶景!

●東坂三階櫓跡「A」の石垣   ●天守と桜の紅葉

 

●その他   ●印はクリックして拡大 


人質櫓跡 火打櫓 福山城を築城した水野勝成の像

→阿部家7代の阿部正弘は江戸幕府の老中首座として、政情が揺れる中、安政の改革を行い、身分にかかわらない人材登用や人材育成に力を入れ、日米和親条約の締結にかかわった。

←お城から見えるこの西洋の建物は、本物の大聖堂かと思いきや、日本最大級の大きさを誇るヴァレンタイン大聖堂という名の結婚式場だった。

結婚式場 安政の改革を行った阿部正弘の像
福山城400年記念のバリケード 美しい紅葉 福寿会館もこの日は休み

 

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