松江城:2024年11月29日

午後から足立美術館とセットで訪れることに。本当は、麓の御子守口から歩いて登りたかったのだが、十分な時間がなさそうだったので、山中御殿の近くの駐車場まで車で行ってそこから歩くことにした。

それでも広大な山中御殿は見ごたえがあり、七曲りや山頂からの眺望が抜群だった。上から花ノ壇や山中御殿などの曲輪がしっかり見えるし、その向こうの城下町と飯梨川、毛利氏が陣地とした勝山や京羅木山、そして中海、日本海までが見渡せる。さらに、遺構は「土の時代」と「石の時代」のものがあり、その変化を体験することができた。

ただ予習不足のせいで、山中御殿西側の搦手にある塩谷口門を見過ごしてしまったのは残念だ。非常に小さくてかわいい埋門は見ておきたかった。

また、ルート前半を省略してしまったため、太鼓壇にあった「山中鹿之助幸盛」の銅像を見れなかったのも残念。鹿之助は、尼子氏に仕えて毛利氏と戦い、主君の降服後も、終生のライバル毛利氏と死闘を重ね、数度の敗北に辛酸をなめたものの、あきらめることなく尼子氏再興のために立ち上がった人物で地域のヒーローとして親しまれている。



月山富田城 - マップ   目次

中国地方屈指の戦国大名、尼子氏の居城。鉄、銀、港の3つを支配。

月山富田城は標高約190m(春日山は180m)の月山山頂に主郭部を設け、尾根上に大小多数(約500個)の曲輪を配した複郭式山城。総面積70万m2(東京ドーム15個分)の広さを持つ国内最大級の山城。

菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず、城内郭の下段が落ちても、中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築き守りを固め、一度も落城しなかった天下の名城。

尼子氏の後には毛利氏、吉川氏、堀尾氏と城主が変わり、戦国時代から江戸時代初めまで山陰の政治経済の中心地だった。

吉川氏が城主となってからは主要な箇所に石垣を築き、瓦葺きの櫓や土塀を建てるなど、中世城郭から近代城郭へと大きく変貌したが、戦国期の大規模な中世山城の面影を残しており、「土の中世」から「石の近世」までの時代の変化を体感できる。

その後城主となった堀尾吉晴が松江城を築城する際に、月山富田城の資材が運ばれた。

 

●月山富田城
●山中御殿

●七曲り
●山頂部分 - 西袖ヶ平、三の丸
●二の丸
●本丸
●その他 - 足立美術館

     

 

月山富田城 - 御子守口から   ●印はクリックして拡大
御子守口からずっと歩いてくるだけの時間がなかったため、山中御殿手前にある駐車場まで車で行くことに。
最初から歩きの場合は御子守口からの車道の途中で左側の階段を歩いていき、千畳平(せんじょうなり)や花ノ壇も通るのだが、残念ながらそれらを割愛してしまった。

←↓通ってきていない太鼓壇、奥書院、花ノ壇などを、七曲りや山頂から見下ろすことができた。

↓花ノ壇は名前のとおり、花が植えられていた。当時の堀立柱建物の一部が復元・整備されている。主屋には武将が生活し、侍所には武士たちが待機していた。

  ●山頂から見下ろす  

←最初に中世時代の遺構である、大土塁を見学。高さ約7m、長さ約130mの巨大な土塁だったらしいが、山中御殿の西側で見ることができる。大土塁は一段上から見下ろした方が迫力のある全体像が見えたようだ。

大土塁   花ノ壇

 

●山中御殿   ●印はクリックして拡大 

←最初から歩いた場合、花ノ壇と次の曲輪の間には堀切があるため、一旦下りてその縁の道を通って山中御殿に入ることになる。

→今回は近くの駐車場から旧大手門を通って山中御殿に入ったが、この辺の凹んでいる箇所は破城を受けた跡(下の点線箇所)。↓

●七曲りから見た花ノ壇と山中御殿 徹底的に破城を受けた跡
広大な山中御殿
↑山中御殿は、月山の中腹にあり、城主の居館があった場所で広大。城内で最も重要な場所の一つ。
上下2段に分かれていて、石垣の上の上段に城主の館、北側下段には付属の館があった。→

↓山中御殿の南側部分の石垣。
石垣の上が上段   下段
山中御殿南側部分:菅谷口付近→下の写真に続く
  山中御殿南側部分:上の写真から続く  

 

●七曲り

  ●印はクリックして拡大
→七曲りは山中御殿の南にあるこの階段から登っていく。ここは、写真だと見にくいが「相坂(あいさか)」といって、向かい合ってV字型のようになっている石段。
●山中御殿と七曲り   相坂階段

← 幟旗「四つ目結」は京極家、尼子家の家紋。

→七曲りの階段道は整備されていて、前日の雨で少し濡れていたが、滑りにくくなっていて登りやすかった。

相坂階段の右側から七曲りへ   七曲りを登っていく

 

←七曲りの一曲り目のところに「親子観音」がある。堀尾家一族の堀尾勘解由の墓、供養塔で、堀尾家が松江城に拠点を移したころに、堀尾勘解由はこの城の城代だった可能性が高いということらしい。

 

親子観音 ●途中から見下ろす

↑七曲りの途中から見下ろすと、山中御殿の広さがよくわかる。すぐ向かいの山々は毛利家が月山富田城を攻めて長期戦に持ち込んだときに、陣地とした場所。

どんどん高くなるにつれて、通らなかった花ノ壇などの曲輪も見えてきて、遠くは中海、日本海まで見えるようになった。

●10曲目ぐらいからの景色 →ズームで海が見える  

←七曲り(実際は13曲りぐらいある)の山頂近くにも井戸がある。今も水を貯えている山吹井戸の跡。

→七曲りのどこから見下ろしても、花の壇や山中御殿などがよく見える。もうすぐ山頂。

山吹井戸の跡   ●お城と街と山々

 

●山頂部分 - 西袖ヶ平、三の丸   ●印はクリックして拡大 

←三の丸は南北に細長く、北側斜面には鉢巻石垣と腰巻石垣の二段に分かれた打込接の大規模な石垣がある。山頂部分の石垣は吉川家の時代に積まれた石垣が多いとのこと。隅部は完全な算木積みにはなっていないようだ。→

●三の丸へ

完全な算木積みではない

←西袖ヶ平(にしそでがなり):尾根に沿って西に延びた曲輪。ここから七曲りを見張っていた。西側には飯梨川や街と山並みが見えて眺望は素晴らしい。↓

西袖ヶ平から見た三の丸がかっこいい。→

西袖ヶ平(三の丸から見える西袖ヶ平)   ●西袖ヶ平から見た三の丸

西袖ヶ平から見下ろす飯梨川と街と山々

石州瓦:街を見下ろすと赤い屋根が目立つので後で調べてみると、島根県石見地方で生産されている伝統的な石州瓦(せきしゅうがわら)とのこと。「耐久性にすぐれた日本を代表する瓦の一つ。独特な赤い色が特徴で、とくに寒冷地で広く使用されており、山陰地方では赤い屋根が広がる光景を目にすることができる」
赤屋根の石州瓦が多い   三の丸への階段

→本丸跡に立つ「勝日高守神社」の鳥居がある。

→→井戸はこれ以外にもいろんな場所に造られており、籠城戦に備えていて水を確保していた。

  「勝日高守神社」の鳥居 三の丸の井戸

←三の丸から南西方向にもう一つのかわいらしいお城が見える。こちらは「広瀬温泉富田山荘」だったが、2021年に無期限休暇になり、今後は別の用途で使われることになっているらしい。

もう一つのお城? 二の丸から見た三の丸

 

●二の丸   ●印はクリックして拡大 


西袖ヶ平から南西側の道を通って二の丸へ 赤っぽい色の石垣 実際の虎口を下りて→

↑実際は西袖ヶ平から通じている山頂の南西側の道を通って二の丸にやってきた。この道は途中から石垣が積まれているが、この石垣は他の箇所と比べて特に明るい茶色の石が多いように思われる。
標識どおり、ジグザグの道を上ると二の丸。→
↓二の丸からの眺望は素晴らしい!

二の丸は水や食糧を貯えていた場所。

↓本丸と二の丸は、尾根伝いだったものを掘って分断して大堀切にしたもの。

↓本丸に行くには二の丸に上ってきたジグザグ道を下りて、堀切を通って本丸に上る。この堀切はかつて幅10m、深さ約8mもあったそうだ。
  二の丸  
京羅木山城、勝山城、中海など、二の丸からの海方向の眺望

二の丸から本丸には渡れない ●二の丸と本丸の間の大堀切 大堀切から本丸へ(二の丸側の石垣)

 

●本丸  


←南北20〜30m、東西が約130mの細長い本丸。太平洋戦争のときには高射砲の陣地として使われた。

こちらの塔は、山中鹿之助がここに長年籠城していたということで記念碑として明治44年(1911年)に建てられたもの。常に「我に七難八苦を与え給え」と祈っていた。兜の前立ては半月で、さらに鹿の角をつけていた。

本丸 山中幸盛塔
→勝日高守神社は西暦570年に創建された。大国主命がまつってあり、このお城が築かれる前からここに鎮座していた。名前のとおり、この山は昔は「勝日山」だったが、いつの間にか「月山」になった。尼子時代は代々城主の守り神だった。
  勝日高守神社 ●本丸から二の丸方向

 

●その他 - 足立美術館  


●枯山水 ●池庭 ●白砂青松庭
  生の額絵  

 

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