2024年3月29日

満開の桜とともに彦根城を写真に納める予定だったのだが、今年の3月は特に後半寒い日が続き、桜の開花は大幅に遅れた。結局、彦根城を訪れたときにはまだ蕾状態だった。

当日は天気予報では春の嵐になるということで、彦根城訪問日を次の日に変更した。お昼から晴れる予定だったのに、青空になったのは午後3時ごろ。

天守内は大きな地震に絶えるように補修工事中で少し制限はあったが、特に問題はなかった。

実は2022年の秋に彦根城を訪れる予定だったのだが、「これから彦根城」というときにころんで肘を骨折してしまって断念。今回はそのリベンジ。

今回はさらに予習を重ねて挑んだので、ほぼ満足の行くお城旅行になり、リベンジできたと思う。

華麗な天守でありながら鉄壁のお城でもある彦根城は、天空の馬出し、二重壁、華麗な天守、隠れ狭間、見事な石垣、美しい玄宮園、かわいいひこにゃん、最前線の足軽町など、見どころ満載でとても魅力的なお城だった。


家康年表でいうと赤矢印の時期のお城


彦根城   目次

標高136mの小高い山に立つ、3階3重(20.5m)の華麗な現存天守。国宝。主君、,徳川家への配慮から、大津城の5階を移築する際に3階に小さく作り変えられたが、その小さな天守を豪華に見せるために、屋根は切妻破風、入母屋破風、唐破風を多様に配し、2階と3階には花頭窓、3階には高欄付きの廻縁をめぐらせている。
また、彦根城は豊臣家に対する江戸幕府の防衛拠点だったため、天空の馬出しや多くの狭間など鉄壁の城でもあったが、 一度も戦争を経験することなく平和な江戸時代を迎えた。
2024年、世界遺産登録をめざしている。

1600年 (慶長5年)関ケ原合戦語の論功行賞により石田三成の佐和山城と丘陵を井伊直政が拝領。
1602年 直政は城を彦根に移そうと考えたが、佐和山城にて死去。長男の直継が家督を継ぎ、父直政の意志を受け継ぎ彦根城の築城に着手。
時の将軍家康は7か国12大名にも応援させた。
1622年 現在の彦根城が完成。

 

●街とお城
●佐和口〜表門

●表門〜天秤櫓
●太鼓門など
●本丸と天守
●天守内部
●ひこにゃん
●西の丸
●黒門山道から玄宮園へ
●足軽町など


     

 

●街とお城   ●印はクリックして拡大
ラッキーなことに、ホテルからはビルの間に彦根城を見ることができた。
夕方ホテルの部屋から彦根城をズームで見るとお城の向こう側からライトがかすかに漏れている。桜祭りのライトアップなのだろうか。夜の大々的なライトアップはなかった。
ホテルからズームで見る彦根城 ホテルから青空背景の彦根城(夕暮れ)

→市の花、橘のマンホールはいたるところにあったが、天守が描かれたマンホールはなかった。お城の石垣が描かれているのは小さいマンホールのみ(天守はなし)。→
お城と同じように人気のひこにゃんのマンホールは駅前などで見つかった。

街から見た天守の北側   小さいマンホール
駅前の井伊直政像 駅の2階から見たお城 ひこにゃんのマンホール(橘)

 

佐和口〜表門   ●印はクリックして拡大

→中堀を渡って佐和口から入る。道がくねくねと曲がった桝形を通り抜ける。ここはまだ内堀の外なので車が通っている。

右側の多聞櫓は開国記念館。ここで日本100名城のスタンプを押す。

●地図 二の丸佐和口に入ると(桝形)
↓内堀の外側には馬屋もある。馬屋はどこのお城にもあったはずなのに、残っているのはここだけだそうだ。
  佐和口多聞櫓 開国記念館
馬屋 表門手前に井伊直孝公の飛び出し坊や 桜の開花はもうすぐ

←内堀を渡る前に左手に行くと、お堀が丸く曲がっていて、その曲線に沿って築かれた美しい鉢巻石垣と腰巻石垣の組み合わせが見られる。また石垣が直線ではなく曲線なのはめずらしいそうだ。私のお気に入りスポット。

内堀を渡って表門へ。→

●鉢巻石垣と腰巻石垣を持つ土塁   内堀を行く屋形船

 

●表門〜天秤櫓   ●印はクリックして拡大 

→内堀を渡ると、「登り石垣」の説明板がある。「登り石垣とは、山の斜面を登るように築かれた石垣のこと」。すぐ上を見ると、高さ1mほどの石垣が鐘の丸に向かって伸びている。その左側は竪堀になっている。

●登り石垣

左側:券売所、右側:御殿

←券売所で入城券を買って表門山道を進む。広くて緩やかな道だが、「御殿側を高く、反対側を低くして雨水などが御殿側に流れないように工夫されている」

表門山道を上る

 

天秤櫓が見えてきた

橋の下をくぐって、ぐるっと回って階段を上がり、橋を渡って天秤櫓へ。

天秤のような形をしている櫓は日本でここだけ。ただ、左右全くの対称ではなく、窓の数も違うし、それぞれ2階の屋根の向きなども違う。非常時は橋を落として敵の侵入を防いだ。

  ●天秤櫓と橋 ●天秤櫓

天秤櫓の石垣は向かって右側と左側で250年の差がある!
右側の石垣:築城当時の石垣。自然石を積み上げた野面積み(ごぼう積み)。
左側の石垣:19世紀半ばの地震後の大修理で築き直した落とし積み。

●天秤櫓の左側の石垣  

●天秤櫓の右側の石垣

←櫓門のすぐ手前の側面の石垣を比べてもこんなに違う。

→現在は橋が落ちないように固定されているが、当時は橋を落とすための礎石がこの穴にあったそうだ。


櫓門手前の側面の比較   礎石があった穴
→天空の馬出し
お城が小高い山の上にあるので、山に空堀を彫って橋でつなぎ、その先に出曲輪をつくっている(天空の馬出し)。馬出しは西の丸三重櫓のところにもある(下記参照)。山の上から敵を攻撃して城を守り、いざというときに出撃することができる、戦闘的な城。
馬出し:出撃用の陣地。
馬出しと天秤櫓をつなぐ橋   ●天空の馬出し
←天秤櫓内部:「敵が攻め寄せる外側は、防弾の効果を高めるために壁を二重に造って一段と厚くしている。その厚さは30cmを超えている。厚くなっているのは、防弾が必要な壁面の中位より下であり、それより上方は通常の土壁になっている。」
お城の内側方向の壁は二重にはなっていない。
●チョンナ目 壁面の下部は厚い壁になっている  

↑天秤櫓の柱には釿(ちょうな)という「手斧」で、木材の表面をうろこ状に削いだチョンナ目と呼ばれる模様がある。

→窓がそれぞれ、表門山道、大手門山道方向に向いているので、敵を高い位置から攻撃できる。

  天秤櫓の窓から表門山道の敵を狙える 石田三成居城だった佐和山はすぐそこ

 

●太鼓門など   ●印はクリックして拡大 



時報鐘 太鼓門へ 天守が見えてきた

←鏡石に天然の岩が使われているのはめずらしい。

→櫓門としてはめずらしく、背面が開放されて高欄付の廊下となっている。

●自然の岩でできた鏡石とお城  

太鼓門(背面)

 

●本丸と天守   ●印はクリックして拡大
桜はまだ蕾。それどころか梅がまだ咲いている。お昼ごろから晴れる予報だったが、実際は3時ごろになって、やっと青空が背景の天守を写真に納めることができた。
通常、本丸に着くと→この東側と対面するのでこちら側が表だと思っていたら、南側(正確に言うと南西側)の天守が京都の方向を向いているので表だとお城のスタッフが言っていた。

●東側

●南側

天守は東西と南北で印象が異なる。
3階で小ぶりだが、飾りの全部載せ。
高欄はあるが、あくまでも飾りで外には出られない。 花頭窓は通常は最上階のみだが、2階にもある。 様々な破風が18個、現存する城の中で最も多い。唐破風には金箔押しの飾り金具が付いている。
西側 玄宮園から見た北側  
井伊家の彦根橘の家紋 橘の家紋の金具 ●花頭窓、破風など
算木積みの石に矢穴のあと 天守の石垣 古式な突き上げ戸と下見板

←御殿跡の礎石
現在は本丸には天守の建物しか残っていないが、かつては藩主の居館である御広間や宝蔵、そして着見櫓(つきみやぐら)なども建っていた。

→着見櫓からは琵琶湖や街が見える。またここからだと天守が立体的に見えるので人気の写真撮影スポット。

本丸御殿跡の礎石   階段の向こうが着見櫓跡
●着見櫓跡から見た北東側の天守 着見櫓跡から西側に琵琶湖が見える ●着見櫓跡から見た駅方向

 

●天守内部   ●印はクリックして拡大 

 

←鉄板張り釘打扉の重厚な入り口を入ると急な階段。
天守内は、耐震対策工事中だった。→

関ケ原の戦いで西軍に耐え抜いた縁起のいい大津城を移築したため、柱に解体時の番号や使われていないほぞ穴などが残っているということなのだが、結局番号などは見つけることができなかった。

 

重厚な入口と階段 工事中(工事中の説明板)


急な階段 くねくねと曲がった梁 花頭窓の内側
←この天守には74の狭間がある。外からはわからないが、黒い下見板のところや破風の内側に隠れた隠し狭間が設けられている
。外観は華麗だが、内部からは、やはりまだ豊臣家との緊張状態が続く徳川幕府の前線基地として鉄壁の城であったことがわかる。
破風の内側:小部屋と隠し狭間   鉄砲狭間

 

●ひこにゃん   ●印はクリックして拡大

ひこにゃん登場時間 ひこにゃんがやってきた 天守とひこにゃん
ひこにゃん登場時間になると人がいっぱい集まってきた。かなりの人気のようだ。動いているひこにゃんを見るのは初めて。
兜をかぶっているが、そのしぐさは女の子でとてもかわいい。一気にファンになってしまった。戦闘的だが華麗な天守に通じるものがあるのではないだろうか。
みんなの前で写真撮影タイム ●お城とひこにゃんの看板

 

●西の丸   ●印はクリックして拡大

↓天空の馬出し
西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置している。さらに西に張り出した出曲輪は馬出しとなっていて、天秤櫓と同じ構造。西の搦手方面からの敵に備えた守りの要。
出曲輪の方に行く橋は安全面からか通行禁止になっていた。

西の丸(櫓から天守を見る) 西の丸三重櫓  

ほとんどの人が本丸の次は玄宮園に行き、西の丸の方には行かないようなので、とても静か。

西の丸三重櫓の内部は、天秤櫓と同様、外側の壁の下部が二重の厚さになっている。↓

●馬出しと琵琶湖   櫓と出曲輪とをつなぐ橋:通行禁止
●サギ ●外側の壁を厚くしている 櫓の内部

 

●黒門山道から玄宮園   ●印はクリックして拡大

玄宮園へと天守の北側にまわってみると、本丸と西の丸の高い石垣に囲まれた。それまでの華麗な天守の雰囲気とは180度異なり、鉄壁の城の雰囲気だ。

本丸の石垣   ●右側の西の丸の石垣
←黒門山道を下っていくと右手に井戸曲輪。この曲輪の上下の石垣は、高さが10mを超える高石垣。この下にある石垣とその向こうに見える本丸の着見櫓の石垣のコラボは圧巻!「井戸曲輪の下方の石垣は高さが19.4mあり、彦根城の石垣の中で最も高く堅牢な構造となっている」(赤星印は着見櫓跡)→
井戸曲輪   ●圧巻の石垣コラボ↓
本丸の着見櫓跡(赤矢印)から改めて見下ろしてみると、先ほどの黒門・玄宮園への道から着見櫓方面の石垣を見上げていた地点(赤星印)が見えた。→
黒門から玄宮園へ   ●着見櫓から黒門への道を見下ろす
→玄宮園は、江戸時代の大名庭園である回遊式庭園。池をはさんで天守を一望できるスポットは言わずと知れた写真撮影スポット。残念ながら水面に波があり、お城は池にくっきり映ることはなかった。
  ●玄宮園と天守→ 着見櫓から玄宮園を見下ろす

 

●足軽町など   ●印はクリックして拡大

←帰りは大手門から下りた。大手門の東側にも登り石垣が見られた。朝鮮半島の倭城で採用されたもので、日本では採用例が少ないらしい。

→京橋を出てキャッスルロードを通り、今では埋め立てられている外堀跡を越えると足軽町に。

登り石垣   キャッスルロード
←外堀の外側の京都・大阪方面南西方向に足軽たち(彦根城と城下町を守っていた)が1000人以上も配置されていた。足軽屋敷の辻番所では、道の交差が少しずつずれていて、この張り出した見張り窓から彦根城や城下町に侵入する敵を見張っていた。
足軽町の狭い道路 辻番所:道が少しずつずれている  

←井伊家と徳川家が芹川を直線的に付け替え工事を行い、その結果、外堀のさらに外の最外周の堀として機能していた。つまりここが対豊臣の最前線。

芹川   中堀の石垣

 

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