2025年11月26日


広島城がもうすぐ閉城(2026年3月22日)ということで、その前に見学にやってきた。広島お城旅行の2日目は広島城。

広島城は、岡山城とともに関ケ原の戦い以前の豊臣政権下で国内最大級の城として築かれ、当時の古式な姿を原爆前まで保ち続けた貴重なお城だった。

豊臣系のお城なので天守の壁は下見板張りということだが、広島城の下見板は他のお城のように真っ黒ではなく、少し明るい色なのはなぜだろうか。木造復元された表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓の下見板も同じように明るい色になっている。

ただ、広島城は、望楼型の五重五階でバランスが取れていて、壁も茶色で明るく、私的には好みの天守。原爆で倒壊していなければ、関ケ原以前の貴重なお城が見えていたのに...。

天守内部の説明では、以下のような天守にまつわるお話が展示されていて興味深かった。

最初の天守が原爆の爆風で倒壊したあと、「体育文化博覧会」の年に木造の仮説天守が造られて、その周りにジェットコースターが設けられていたという。これが二代目天守。

今の三代目天守を再建する際には、木材天守にする案もあったが、火災に強い鉄筋コンクリート造りになった。ただ、最上階の五層は木造になっているらしい。理由として、1)少しでも上部の重量を減らすため。2)五層の屋根が入母屋造りで、鉄筋コンクリートではその形状を再現するのが難しかったからだそうだ。

初代天守は白い部分は城漆喰が塗られていたが、三代目手腫再建時は冬の寒い時期で、漆喰を塗るはしから漆喰が凍結したそうで、剥がれたりひび割れたりすることから、実際には白セメントモルタルが代わりに使われたそうだ。



広島城 - マップ   目次

広島城は天正17年(1589)に毛利輝元により築城が始まり、天守は慶長3年(1598)ごろ完成した。天下統一の拠点として淀川のデルタ地帯に築かれた秀吉の大阪城を範とし、輝元は中国地方の太守毛利氏の居城の地に太田川河口の三角州を選んだ。広島城の別名は「鯉城(りじょう)」。五重五階、望楼型で、三重三階の小天守2基を天守の東と南に置き、渡り廊下で繋ぐ連結式天守であった。

広島城は豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第を手本にしていて、姫路城などと違ってシンプルな縄張りが特徴だが、88棟の櫓(日本一櫓の多い城)、10箇所の城門で厳重に守られていた。岡山城とともに関ケ原の戦い以前に建てられた天守として、城郭史上重要な天守であった。特に五重天守は高層のため火災や落雷の被害を受けやすく、また、維持管理面から三重などへの建て替えや取り壊しを受けた天守も少なくない。初期の五重天守が戦前まで残存していたのは奇跡であり、惜しくも原爆の爆風で倒壊した。

関ケ原の戦いで毛利輝元が敗れて広島城を去り長門萩に移った。
代わって広島城主になったのは、徳川家康率いる東軍の勝利に大きく貢献した福島正則。秀吉の親類であった正則は江戸幕府に仕える一方で、豊臣家を立てることも忘れなかった。そのため徐々に幕府との関係が微妙なものとなっていった。石垣の修復を武家諸法度に則り幕府に申請したが、まだ許可を得ないうちに修築工事を実施したため違反となり、安芸・備後の両国を没収された。
その後、紀伊から浅野長晟(ながあきら)が広島城に入った。浅野家は12代約250年にわたって広島城主を務め、明治維新を迎えた。

昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートで外観復元された。高さ12.4mの天守台石垣に約26.6mの天守が建つ。小天守は復元されず、南廊下の一部のみを付け櫓風に天守の入口として取りつけた。

 

●お城の周り
●二の丸
●本丸
●天守
●天守内部
●その他

     

 

●お城の周り   ●印はクリックして拡大


毛利輝元:毛利元就の孫。毛利輝元は、本能寺の変後は備中高松城で秀吉と講和を結び、秀吉に臣従し五大老の一人になる(豊臣政権のNo2の大名)。
広島城は、毛利家の新たな拠点として1589年、輝元によって築かれた。それまでの拠点だった吉田郡山城は時代遅れとされ、輝元は太田川の河口に築いた。

毛利輝元像   ●天守南西側
●天守西面 ●天守北西面が堀に映る 日没後 広島城北側から
二代目天守:昭和26年に広島で国民体育大会が開かれることになり、それに先立って同年「体育文化博覧会」が開催された。その際、木造仮設の二代目天守が博覧会の目玉として造られた。
天守の周辺には、当時アメリカで流行していたスイッチバックレールウェイというジェットコースターのような乗り物も設けられ人気を博した。初代と外観デザインも違い、サイズもかなり小さかった二代目天守は同年に解体された。
護国神社の向こうに天守が見える   マンホール

 

●二の丸   ●印はクリックして拡大

二の丸は本丸の南に位置し、四周を内堀で囲まれ、本丸とは土橋、三の丸とは木橋によりつながっていた。 他の城郭と比べて規模が小さく、本丸と三の丸から独立した形となっている。
このことから、広島城では二の丸そのものに「馬出」の役割があったと考えられる。全国の近世城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされている。

●御門橋と表御門と平櫓と多門櫓   ●二の丸表御門

二の丸は毛利時代に築造されたもので、外側から内部が見えにくく、本丸からは内部が見える構造で、防衛機能を考慮していた。
←表御門上階の櫓部分は柱・長押を素木のまま見せる真壁造(しんかべづくり)で、柱頂には舟肘木(ふなひじき)を置くなど、拡張高い外観意匠をしていた。

表御門 舟肘木(ふなひじき)
表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていたが、原爆により倒壊、焼失した。平成元年、広島城築城400年の記念事業として二の丸が木造で復元整備された。壁に横板を取りつける下見板張りと呼ばれる外観。
昭和時代はコンクリート再建の時代だったが、平成の世になるとコンクリートは時代遅れで木造の時代になった。
塀の内側(狭間を覗き込む)   五七桐紋の鬼瓦
高窓:多門櫓の北面と太鼓櫓に「高窓」。高窓はその名の通り天井近くに設けられた窓。一説には屋内で火縄銃を打つ際に出る煙を外に出すためのものと言われている。現存する城郭で高窓を設けているのは姫路城天守等しかなく、極めて類例が少ない。

太鼓櫓 太鼓櫓の高窓
太鼓門:江戸時代には、この2階に時を告げる太鼓が置いてあり、朝夕太鼓を打ち鳴らして城門の閉開や藩士の登城の合図にしていた。
→「浅野氏による元和6年(1620)の修築石垣。角石が控えの長い方形の規格石材で統一され、隅脇石も形・大きさの揃った方形石材が置かれて完成期の算木積になる」
  太鼓櫓台の石垣 平櫓から太鼓櫓
表御門の内部(天井部分) 平櫓の内部 68mある多聞櫓
太鼓櫓の内部 ●本丸から二の丸を見る 二の丸内側の番所跡
原爆を生き延びた樹木。
→爆心地から740mの距離だが、二の丸建物群が炎上する中で生き残った。被爆直後は黒こげになったが、もともと火事に強い樹木だったことが幸いして生き延びた。
→→爆風で幹が真っ二つに裂けかけたが、戦後数十年経ってから樹木医の手当を受けて命をつなぐことができた。
被ばく樹木ユーカリ 被ばく樹木マルバヤナギ

 

●本丸   ●印はクリックして拡大 

本丸中御門跡の石垣は、毛利氏によって積まれたもの。「天守台と同様、長い石材を横位置に置いている。隅角は、矩形を呈す方形石材を用いているが、算木積にはなっていない」ということだ。中央に鏡石が据えられて威厳を示している。↓
中御門跡の手前の本丸への土橋 中御門跡横の石垣とお堀  
←原爆の熱によって焼けて赤くなってひび割れた石垣。
●中御門跡の石垣   中御門跡の石垣の鏡石


広島護国神社:戊辰戦争において戦死した広島藩士を祀る「水草霊社」として明治元年(1868)に創建された。現在は、その後の戦争事変での戦没者約9万2千柱を祀っている。昭和20年(1945)の原爆投下により社殿が焼失するも、昭和31年(1956)に再建された。

広島護国神社 本丸上段
明治以降に造られた桜の池跡 被ばくクロガネモチ 大本営跡
↑明治27年(1894)8月日清戦争の際に、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に軍の最高機関、大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所とされ、ここに大本営が設けられた。
東小天守から伸びる長御櫓台跡 長御櫓(ながおんやぐら)台の石垣に刻印  
↑東小天守から伸びている長御櫓台(多門櫓)の石垣は福島正則時代の修築によるもので、割石による方形石材を中心に打込接乱積。いくつかの石に刻印が見られる。
←石垣を積んだのはいいが、無断修復を幕府にとがめられ、取り壊した石垣の跡。幕府が取り壊しを命じたのは別の場所とされ、これに従わなかったことなどを理由に、福島正則は広島を去ることになった(武家諸法度違反による改易)。ちなみに個々の石垣は打込接石垣。
●取り壊した石垣
←「毛利氏の石垣が残る。隅角は大型の石材を用いているが、算木積みはなさない」
裏御門跡 裏御門跡の石垣  

 

●天守   ●印はクリックして拡大 


原爆で失われた天守が外観復元され、内部は博物館。五重五階、望楼型。三重三階の小天守2基を天守の東と南に沖、渡り廊下で繋ぐ連結式天守だったが、小天守は復元されなかった。

各重の屋根上には隙間なく可能な限り千鳥破風が置かれており、装飾性豊かな天守群になっていた。

●天守   桜の紅葉がきれい
天守台の上面は不等辺四角形:広島築城時は石垣を築く技術が未発達だったため、上面を正確な矩形(正方形・長方形)にすることが不可能だった。南東隅がかなり突出した不等辺四角形になっている。上面を方形にすることよりも、崩れないように石垣を積むことが重要だったとのこと。 天守の外壁は、壁の上部を白漆喰の塗籠とし、下部は土壁の上に板を貼る「下見板張り」。板には劣化を防ぎ黒色を際立たせるために松煙と柿渋を混ぜた墨を塗るので、下見板張りの城は黒く見える。
ただ、広島城の下見板張りの板は他の下見板張りのお城の黒色と比べて茶色なのはどうしてなのだろうか。でもそれが広島城ならではの色となっていて美しいと思う。
  ●夕陽を浴びる天守南面  
第五層には装飾性の高い華頭窓があるが、広島城の場合、釣鐘を吊るしたような形をした華頭窓が設けられている。外側には廻縁が取り付けられている。実際に歩くことができない見掛け倒しの廻縁もあるが、広島城の場合は、実際にそこを歩くことができる。なお、この第五層のみ木造とのこと。
    豕扠首(いのこさす)
排煙窓:火縄銃を打つと猛烈に煙が出る。亜硫酸ガスが含まれている。一斉射撃をすると内部が煙だらけになる。姫路城と広島城には排煙窓がついている。二の丸太鼓櫓の高窓と同じようなものではないかと思われる。

豕扠首(いのこさす):天守の破風に設けられたいのこ首は、おもに社寺建築でもちいられる破風の妻壁の装飾。束とその両脇に合掌材(2つの部材を山形に組み合わせたもの)をつけたもの。
  排煙窓  

←天守西面を見ると、破風には豕扠首(いのこさす)があり、四重部分には窓とその両側に小さめの狭間も設けられている。

→鬼瓦の紋: 比翼千鳥破風の鬼瓦の紋に毛利元就が正親町天皇から下賜された十六葉菊紋や毛利輝元が足利義昭から賜った五七桐紋が使われているとのことで、両方が混在している。

天守西面の三重と四重部分 鬼瓦の紋は混在

 

●天守内部   ●印はクリックして拡大


「コンクリートの耐用年限は50〜80年。それを過ぎると取り壊すしかない。木造の耐用年限は短くても200年。天守クラスでは400年。耐用年限を過ぎてもいくらでも修理ができる。修理をすると半永久的に持つ」という。果たして閉城後、どのような天守が造られるのだろうか。楽しみだ。

広島城閉城のポスター   毛利氏の政治の説明
→「毛利氏に変わって福島正紀が芸備両国、49万余石の大名として行った。太閤検地を実施し、兵農分離の徹底を図り、領内に支城を置いた。西国街道を城下に通し、町人町を拡げるなど、城下町の本格的な充実を図ったが、城の石垣の無断秀布を問われて広島を去った」 ↑「毛利輝元は広島に入城後も引き続き城郭の整備を行い、城下の町割をてがけた。城の周りに家臣の屋敷を配し、京に仁田町割りとした。関ケ原の戦いで徳川家康に敗れ、その両国を防長両国に削封され、慶長5年(1600)萩に去った」
  福島氏の政治の説明  

←「福島氏のあと領内は広島藩と福山藩に分かれ、元和5(1619)8月、広島へは和歌山から浅野長晟(ながあきら)が42万余石の領主として入った。福島市の諸制度を受け継いで領国支配の体制を整え、城下の整備を勧めたが、藩主の直轄領を拡大するなど近世的な藩体制の確立を図った」

浅野氏の政治の説明   広島城キャラクター
最上階 原爆ドームが見える 真下の紅葉
北側の紅葉がきれい きれいな紅葉 南方向の眺望

 

●その他   ●印はクリックして拡大


←駅内の混んでるお店よりもビルの2階にあるこのお店のお好み焼きの方がずっとおいしかった。アナゴ丼も美味しかった。

広島に来たので久しぶりに原爆ドームを訪ねた。学生の見学や修学旅行、インバウンド、一般の方の旅行など、思っていた以上に大勢の人たちの関心が続いていることに安堵した。

『若貴』の広島かきのお好み焼き アナゴ丼  
原爆ドーム 原爆死没者慰霊碑 広島平和記念資料館

 

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