2025年11月27日


広島お城旅行の3日目は岩国城。岩国城は山口県だが、広島県のすぐ西隣の市にあり、南蛮造りのお城や、錦帯橋も見たかったし、山口県名物の瓦ソバも食べられるということで、今回の広島旅行のスケジュールに入れた。

岩国城は山頂の天守閣と山麓の御土居、そして対岸の城下町がセット。アーチ型5連の木橋である錦帯橋はその御土居と城下町を結ぶ大事な役割を果たしていたのだから、これもお城とセット。

当時は錦帯橋から天守閣は見えなかったようだが、復元天守は錦帯橋から見えるように元の位置より約50m南に建てられた。そのおかげで、今は錦帯橋と天守閣を同時に見ることができる。

ただ、江戸時代は、藩士や商人など特定の身分しか通れなかった。誰もが渡れるようになったのは明治になったあとのことだそうだ。

あと、この天守閣は、実際、外から見ると屋根は四重(四層)だが、窓は六階分あるので、「四重六階」になるのだと思うが、ネットに「三層四階」という説明もあるのは、三層目に入母屋屋根をかけてその上に物見を置いているので、物見を含まない状態の場合「三層四階」になるということなのだろうと思う。

四層目の物見の内部は二階に分かれていて(五階・六階)、五階より六階が張り出している。それだけでなく、三層目も二階に分かれていて(三階・四階)、三階よりも四階が張り出している。

下の階よりも上の階が張り出した珍しい南蛮造りの天守には小倉城、高松城があるが、最上階だけでなく四階も下階より張り出した形になっているのは岩国城だけだそうだ。

実際、この復元天守の内部は四階しかなかった。いずれにせよ、築城からわずか7年で破却になったのは非常に残念。



岩国城 - マップ   目次

岩国城天守は複合式望楼型4重6階。関が原の合戦後、岩国に国替えとなった吉川広家によって6年半の歳月((慶長8年(1603年)〜慶長13年(1608年))をかけて築城された。横山(横山城とも呼ばれる)の山頂、本丸北端の山陽道が眼下に見える場所に天守閣を築き、山麓に政務を執るための居館(御土居)を構えて重臣を住まわせ、錦川を自然の外堀として、対岸の錦見地区に大半の家臣、町人を住まわせ城下町を作った。

関が原の合戦以後に建てられた山城はめずらしい。また4重6階の白亜の天守は、3階よりも4階、5階よりも6階が張り出した形をした珍しいもので、エキゾチックな桃山風南蛮造り。しかし、完成から7年後、元和元年(1615年)江戸幕府の一国一城令により山城の天守以下すべての建物と石垣は破却された。

現在の天守は昭和37年(1962年)に、錦帯橋付近からの景観を考えて、残存していた図面(断面図のみ)をもとに本来の天守の位置より約50m南に、復元されたもの。

 

●錦帯橋とお城
●川の山側(吉香公園)
●二の丸・本丸の周囲
●本丸・ニの丸
●天守内部
●その他

     

 

●錦帯橋とお城   ●印はクリックして拡大


錦帯橋は延宝元年(1673)、第三代岩国藩主吉川広嘉によって創建された。それまでの橋は、錦川の洪水のたびに流されていたが、広嘉の斬新な発想と藩の技術者のたゆまぬ努力によって現在の橋の形が作り出された。...現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて行われた工事により架け替えられたもの。
錦帯橋、ロープウェイ、岩国城セット券 ●お城と錦帯橋
その木組みのアーチや橋脚、その橋脚を支える敷石等の技術は、現代の土木工学においても通用する技術であると言われ、当時の岩国藩の技術の高さを裏付けるもの。
近くに実験用の橋があり、水漏れや耐久性のデータを蓄積し、次回の架け替え工事に備えているそうだ。
@アーチ型の構造 橋の裏側(昔のスタイルの鉄くぎ)

流されない橋の秘密(Youtubeより)
@南京玉すだれのようにアーチ型の構造で最低限の橋脚で橋が欠けられる
A橋脚は流れる水の力を受け流す形状
B橋脚の石垣は川底の石組とも一体化し橋の土台を強固にしている

A水の力を受け渡す形状の橋脚 B川底の石組みと一体化

川を渡ると城内になる。錦川をお堀とみなして山頂にお城を城築したため、川の山側には上級武士の屋敷、反対側には町人らが暮らす城下町がつくられた。
●橋の上からお城を見る   ●橋の下からお城を見る
●山頂の天守 川に写る錦帯橋の影(川の山側へ) マンホール

 

●川の山側(吉香公園)   ●印はクリックして拡大
←吉川広嘉公像:三代岩国藩主。錦帯橋を創建した。

川の山側の御土居跡は吉香公園になっている。
吉川広嘉公像   吉香公園



→初代岩国領主、吉川広家公は戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、東軍と交渉して毛利家を救い、毛利家から広家公に、周防国岩国3万石の所領が与えられた。

  初代岩国領主、吉川広家像 岩国藩五家老の一つ、香川家の長屋門
←「旧目加田家住宅は、18世紀後半頃の建築とみられる中流武家の住宅である。木造一部二階建て、屋根は入母屋造り。屋根は瓦葺きで、その葺き方は両袖瓦と平瓦を利用した「二平葺き(にびらぶき)」と呼ばれるもので岩国地域でしか残っていない独特の葺き方」→
旧目加田家住宅   二平葺き(にびらぶき)
→「錦雲閣」 (きんうんかく) は、「明治18(1885)年に旧岩国藩主吉川家の居館跡が公園として開放された際、吉川家歴代を祀る吉香神社内の絵馬堂として建てられたもの。旧藩時代の矢倉に似せて造られており、吉香公園の堀に面して立つその姿は、まるで一幅の日本画を見るようで、大変風情がある」
  ●綿雲閣 ●吉香公園から天守ズーム
今回もお城まで歩いて行こうと思っていたのだが、この日は岩国城が14時で閉まるということでロープウェイを使用した。山頂駅からの展望は遠くがかすんでいて瀬戸内海までは見渡せなかったが、錦川と錦帯橋はよく見えた。
ロープウェイから錦帯橋を見下ろす ●山頂駅から町を見下ろす

 

●二の丸・本丸の周囲   ●印はクリックして拡大
←ロープウェイを使用すると約3分で山頂駅広場に着く。ロープウェイ山頂駅の広場にあるからくり時計は時を告げるとき、中の人形が見え、メロディが流れるようになっているとのことだが、その機会を逃してしまったようだ。
ロープウェイの駅とお城の間には距離がある(300m)ので、舗装された道を歩く。
からくり時計   岩国城まで300mの道標

←約5分で左手に大釣井。慶長13年(1608)山頂の要害築城時に造られたもの。
「本丸の西側にあたるこの周辺は水ノ手郭と呼ばれ、城の水場として重要な場所であった」

舗装道路を歩く 大釣井
→さらに進むと右側に古式穴太積みの技術が生かされた復元天守台。この石は石灰岩で、ここから西南へ約1500mの尾根筋に位置する護館紙(石切り場跡)から切り出されたもの。
隅石には算木積みの技術が取り入れられ、反りはなく安全性に重点が置かれた造り。


●旧天守台 旧天守台反対側
←「岩国城は、江戸時代初期に築かれた石垣造りの近世城郭である。
この時代に築城された城郭の多くは平城で、岩国城のように山頂に城郭を築き、防衛を主体とした空堀を築造したものは、全国的に見ても極めて珍しい。
この空堀は幅約19.8m、深さ10mと日本最大の箱堀構造で、明らかに敵の鉄砲による攻撃を意識して造られたものである。石垣は空堀の部分には築造されていない」


●空堀跡 北の丸跡
北の丸東面の旧石垣 本丸東側の当時の石垣 二の丸東側の当時の石垣

 

●本丸・二の丸   ●印はクリックして拡大 

大手門から二の丸広場へ 冠木門の大手門を入ったところ ●天守(南西側)が見えた
←二の丸から天守が見える。天守閣の手前、二の丸には縁起のいいクロガネモチの木が植えられており、赤い実が目立つ。
一段高くなっている天守のある本丸へ。天守台の周りには黄色いツワブキの花が植えられている。→
縁起のいいクロガネモチ ●天守台
天守南東側下から 吉川家家紋

天守北側から

復元天守:昭和37年(1962年)に錦帯橋付近からの景観という理由により、旧天守台から南へ約50m移動されて立てられた。外観は、「伝岩国城断面図」をもとに再現された。
●北東側から見た天守 二の丸

 

天守内部   ●印はクリックして拡大 

天守閣2階には錦帯橋の模型、具足や刀などの展示、三階には全国の主なお城の写真と刀などの展示など。



  刀の展示 具足の展示
最上階(四階)は物見(望楼)で、南東方向には錦川と錦帯橋を含む岩国市とその向こうに瀬戸内海が望める。
この日は遠くが霞んでいて、瀬戸内海までなんとか見渡せるが、海に浮かぶ島々までは見えなかった。
最上階 ●最上階からのビュー

瀬戸内海 錦雲閣が見下ろせる 山側

 

●その他   ●印はクリックして拡大


名物瓦ソバはずっと食べたかったので願いがかなってよかった。ソフトクリーム屋さん『むさし』はソフトクリームの種類がなんと222種類もあるという日本記録更新中のお店。『ナニコレ珍百景』の番組で「ソフトクリームだらけのお店」として認定されたお店。

『長州屋』の瓦ソバ 押しずし  
瓦ソバの『長州屋』 アイスクリーム屋さん『むさし』 『むさし』のソフトクリーム

 

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