2024年4月20日

この日はよく晴れていたが、今回も黄砂の影響で遠くが霞んでいた。桜の見頃は過ぎていたようだが、まだあちこちに少し残っていた。この新潟でも3月は例年より寒かったようで桜の開花は遅れたのだが、開花してから急に暑くなり散るまでが少し早かったようだ。

戦国時代の武将、上杉謙信公の居城である春日山城は、全国でも最大規模の中世城郭。石垣がなく、空堀や土塁でできたお城。石垣もない山城は今回が初めて。前回の安土城が石垣のお城で、今回は土でできたお城なので、石垣のお城から土塁のお城にレベルアップ。

でも、実際歩いてみると、巨大な竪堀に度肝を抜かれ、急斜面に造られた200以上もあるという曲輪はいたるところに見られ、空堀や土塁などもよくわかる形で残っていた。山全体が要塞化されていてその規模にも感動。

そうした堅固な要塞とは対称的に、山自体は木々や草花の宝庫で、桜、スミレ、エンレイソウ、など春の花が咲き乱れ、生まれたばかりの木々のフレッシュな葉っぱに癒され、 また、山頂の本丸からの眺めは、さまざまな緑色が織りなす春限定の絶景。
自然観察の記録も残さないとあまりにももったいないので、山歩きのページも作成することにした。




春日山城   目次

越後守護上杉氏が戦時のために築いた戦国時代の山城。
戦国の名将、上杉謙信公の居城。石垣がなく、自然の地形と土木工事によりめぐらせた空堀や土塁などによって多くの曲輪を守っていた。
また、天守閣を持たず、周囲の山々に砦を築いて、より大きな城としての機能を持たせていた。
天正7年(1579)に、養子の上杉景勝と三郎景虎が家督を争って戦った御館の乱で勝利した上杉景勝に引き継がれ、慶長3年(1598)には景勝の会津移封に伴って堀秀治に引き継がれた。堀氏が慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を新築して移ると、城としての使命を終えた。

 

●春日山城跡ものがたり館
●春日神社〜二の丸

●中心部
●千貫門など

     

 

●春日山城跡ものがたり館   ●印はクリックして拡大

まずは「春日山城ものがたり館」で日本100名城のスタンプを押す。隣には春日山城史跡広場があり、堀と土塁が復元されている。堀にはカキツバタが植えられているが、花は5月に咲くので少し早すぎた。

春日山城跡ものがたり館 土塁と堀の復元

「春日山城の特徴として、春日山の東裾野に、堀と土塁からなる総構(城の一番外側の構え)が延長約1.2kmにわたり築かれたことがあげられる」。山城で総構が築かれているのは珍しいとのこと。総構はここから、埋蔵文化センターまで続いている。センターの方から少し歩いてみたが道に迷ってしまい、時間もあまりなかったので途中で断念した。
上越市埋蔵文化財センター 謙信のモデルの方が説明してくれた  

 

春日山神社〜二の丸   ●印はクリックして拡大

春日山神社の駐車場に車を止めて、神社への階段からスタート。階段を登ったところに謙信を祀る春日山神社がある。お参りしてから、謙信公銅像前をぐるりと廻ると、そこは、竪堀や曲輪などがある、全体が要塞化された山城。

●歩いたコース   春日山神社へ(春日山神社)
謙信公銅像 茶屋 ●竪堀

↑すぐに目につくのが、真正面に見える、大きな竪堀。なんと全長80m以上もある。

←←急斜面に曲輪が階段状につくられていて、山全体で200以上もあるそうだ。歩いていても名前のついていない曲輪があちこちに見られる。

●曲輪 三の丸へ  

三の丸には、謙信公の養子「三郎景虎邸跡」や「米倉跡」などがある。米蔵の向こうに築かれた土塁は、春日山城跡でも最も良好な状態で残っている。→
米蔵とは反対方向に「三郎景虎艇跡」がある。景虎は景勝と家督を争った「御館の乱」で悲運の死を遂げた武将。

●三の丸 米蔵跡の背後に土塁
←途中に、謙信公の財政を支えた「青苧(あおそ)」の説明板があった。青苧とはイラクサ科のカラムシの茎から採れる繊維。「越後は上質な青苧の産地で古くから「越後上布」の原料として珍重された。上杉謙信公も、青苧商人や港に出入りする船から税を徴収して、コメ・金銀とともに軍事と財政量を支えていた」とある。
上杉三郎景虎邸跡 カラムシか  
→「二の丸は、本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城(みじょう)と呼ばれる曲輪群の東裾を取り巻くように造られた曲輪で、実城とともに春日山城の中心地区をなしている。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられている」
●途中で来た道を振り向く   二の丸

 

●中心部   ●印はクリックして拡大 

←「地震被害確認中」で天守台は立ち入り禁止。1月1日に起こった能登半島地震の影響のようだ。
→「頂上は蜂ヶ峰と称し、眺望に富み、付近の属城を十分に監視することができた」とある。この日は黄砂がひどく、向こうの山々や日本海までは見えなかったが、それでも春色の絶景を堪能できた。二の丸の大きな新緑のイチョウの木が目立つ。↓

天守台は立ち入り禁止   春日山山頂本丸
山頂からの眺め

←本丸の後方に下りていくと一段低いところに直径8mの大井戸がある。「どんな渇水でも枯れることなく、今でも水をたたえている」

大井戸の曲輪から急な階段で堀切に下り、そして急な登りで今度は鐘楼堂の曲輪へ。→

大井戸   曲輪間

さらに西に下ると、景勝邸跡。景勝は、景虎と家督を争った「御館の乱」で勝ち、謙信公の跡を相続した。→

←曲輪間はこのように深い堀切で区切られている。

堀切 景勝屋敷跡(鐘楼跡)
いったん、本丸に戻って今度は北方向に下りていくと、護摩堂、諏訪堂、その向こうに謙信公が出陣前に戦勝を祈願した毘沙門堂およびお花畑がある。

  護摩堂跡

諏訪堂跡

→「この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像が安置されている。毘沙門天は悪魔を降す神であり、謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、『毘』の旗をかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓いを立てさせた。毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天であり、城の北方を守る意気をもっていたものと思われる」
  毘沙門堂 お花畑跡

 

●千貫門など   ●印はクリックして拡大 

←上杉家の重臣、直江兼続の屋敷跡。

近くに階段城の曲輪が見える。→

 

直江屋敷跡 ●二段の曲輪
←「千貫門の内側に連続する二本の堀が造られており、門の位置からは道のように見える。空堀は通常尾根を分断するように造られるが、ここでは堀の形に見せながらも、門から侵入した敵を沢に落とすように巧妙に仕組まれた道のように思われる」
虎口 ●千貫門と2つの空堀  

←千貫門の2つの空堀の一つ。道のように見せかけた深い堀で、このまま進んでい行くと谷の底に落ちることになる。

このあと、階段を下りていき、春日神社に戻っていった。

空堀の向こうは谷(階段)   上越市のマンホール

 

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