2025年3月25日

岡山のお城見物2日目は古代山城の「鬼ノ城」。天気はいいのに、相変わらず黄砂がすごくて遠くが霞んで見えない状態。
古代山城は今回が初めて。ここには昔話『桃太郎』のモデルとなった鬼退治伝説が残っているというから興味深い。
伝説では「鬼ノ城」は鬼である百済の王子、温羅(うら)の居城で、大和朝廷によって派遣された吉備津彦命(きびつひこのみこと)(桃太郎のモデル)が弓矢などで戦い、人々を苦しめた温羅を退治したという。
実際は、白村江(はくすきえ)の戦いで大敗して百済から逃げてきたが、唐と新羅の連合軍の侵攻を恐れた中央政権が西日本各地に城を造らせたお城の一つというのが通説のようだが、鬼ノ城のみ日本書紀に記載されていないというのでミステリアス。

実際、水門の作り方や、城壁に沿って内側と外側の両方に見られる敷石も、他の山城には見られないものだそうだ。そして角楼も他の城では発見例がないらしい。
このお城で最も圧倒されたのは、西門付近の「版築土塁」。なんと当時はこの幅7m、高さ6mの規模の城壁を2.8kmにわたって鉢巻状に築いた(一部は石垣だが)というから、途方もない労力と時間がかかったに違いない。
また、急峻な崖の所々に垂直に高石垣が築かれているのにも圧倒された。中でも屏風折れの高石垣は手前から見ることができるが、あれはやはり鬼がやったとしか思えない。
その鬼を退治した桃太郎はやっぱりすごい!
帰りに戦国時代の織田軍戸毛利軍の戦いで水攻めを受けた備中高松城に立ち寄った。武州忍城(埼玉県行田市)と紀州太田城(和歌山市)とともに日本三代水攻めと称される。



鬼ノ城 - マップ   目次

岡山県総社市、北東部に位置する鬼城山(標高約400m)の山頂部(8〜9合目)にある壮大で堅固な古代山城。築城は7世紀後半。 わずか50年前の1971年にこの存在が確認された。
城壁は8〜9合目にかけて鉢巻上に築かれていて、幅約7m、高さ約6mでその総延長は約2.8kmに及ぶ。城内面積は約30ha(東京ドーム約6.4倍)に及ぶ広大なもので、東西南北4か所の城門と、6か所の水門が存在し、城内の中央付近には礎石建物跡が7棟確認されている。唯一西門のみ復元されている。
白村江(はくすきえ)の戦い(百済を支援して朝鮮半島に兵を送るが大敗)により百済から逃げてきたが、唐と新羅の連合軍の侵攻を恐れた中央政権が西日本各地に城を造らせた。鬼ノ城もその一つで、百済から逃げてきた技術者の指導のもとに築かれたものか。でもなぜか鬼ノ城は『日本書紀』に記載がない。
桃太郎の鬼である、百済の王子、温羅(うら)の一族の居城ではないか - そのことから「桃太郎伝説」が生まれ、永らく鬼退治の舞台として親しまれてきた。

 

●ビジターセンター〜展望デッキ
●西門と角楼
●南門・東門へ
●屏風折れの高石垣
●北門へ
●吉備津神社と吉備路
●備中高松城

     

 

●ビジターセンター〜展望デッキ   ●印はクリックして拡大

この一帯は、国指定史跡鬼城山をはじめ貴重な文化財と豊かな自然環境が残る場所で「自然と歴史あふれるフィールドミュージアム」と位置付けられている。お城をぐるりと廻るコースだけでなく、自然を観察するさまざまなウォーキングコースも充実しているようだ。

ビジターセンターとウォーキングセンター 西門の模型(盾はかなり大きい)

←実際の上空からの写真撮影を見ると、山頂部が高原状となっており、斜面部は急な傾斜地となっているのがわかる(クリックして拡大)。高原部分の周辺に約2.8kmの城壁が造られている。

今回は、この周辺部分をぐるりと廻ることにする。まずはビジターセンターに寄り、そのあと、展望デッキに行って、鬼ノ城を一望する。

●鬼ノ城の上空からの撮影   ここからスタート

ビジターセンターからわずか5分で学習広場展望デッキに着く。鬼ノ城の西門や版築土塁などが真正面に見え、急な崖の上に築かれていることがよくわかる。

展望デッキ ●展望デッキから鬼ノ城を望む
桃太郎伝説:ここ吉備地方には、大和朝廷が派遣した吉備津彦命が人々を苦しめた鬼神(温羅とも呼ばれる)を退治した伝説が残り、昔話「桃太郎」の原型になったとされている。伝説では、鬼ノ城は温羅の居城とされ、吉備津神社や吉備津彦神社のある「吉備の中山」に陣を構える吉備津彦命と、弓矢などで戦った。(説明板)
タムシバの蕾か アセビ

 

●西門と角楼   ●印はクリックして拡大 

←東西南北4か所の城門が築かれているが、とくに西門は残りがよく、復元されている。鬼ノ城最大の城門。正面3間(12.3m)、奥行2間(8.3m)の大規模な城門。12本柱で構成される堀立柱城門。

城壁は直線を基本とし、下幅約7m、上幅約6m、高さ約6mの規模をもつ。
城壁の大部分は「版築土塁」で、要所の6箇所には敵の侵入を防ぐために高い石垣を築いているが、基本的には土城。

●西門正面

●西門城壁外側の土塁
西門城壁外側の西側の土塁

●西門と城壁

●土塁は東側に続く:一部は石垣
版築工法:壁となる位置に柱で抑えたせき板を置き、内部に土を入れて一層ごとにつき固める工法(左図ダブルクリックで拡大)。
版築は大変な労力を費やす作業だが、その盛土は非常に硬く、発掘調査の作業では、しばしば鍬の先に火花が散るほどだった。(ビジターセンター)
大変な労力を費やして築かれた土塁は迫力があり、その大きさに圧倒された。
版築土塁の幅は6〜7mもある ●ビジターセンターの版築工法の説明

●角楼(西側)からみた西門 城壁内側(北東側)から見た西門 城壁内側敷石

↑城壁に沿って内側と外側の両方に敷石がある。他の古代山城には敷石は見られない。異文化を持った人たちが築いたか。

←西門のすぐ背後(北西側)に角楼がある。見張りと防御の角櫓みたいなもので、防御力を高めるために西門の近くに築いている。 今は展望台になっている。

角楼(ハンノキ) 展望台になっている角楼  

 

●南門・東門へ   ●印はクリックして拡大 

このまま展望コースを東門まで、そこから山並みコースで、屏風折れの高石垣から北門を廻って西門に戻ってくる予定。

西門近くの城壁外側にも石が敷き詰められている。→

  道にも敷石が 西門から少し離れたところの道

←「水門は水流に耐えるように下部の内外面とも石積みにし、上部は版築工法による土塁。通水口は石垣上端にを設けており(他の古代山城には見られない)、規模は第1水門が長さ14.6mで、第2水門は16.4m」(説明板)

→6か所の高石垣のうちのひとつ。高石垣の場所はどこも展望はいいが、黄砂のせいであまりよく見えない。

第2水門 ●南門跡手前の高石垣、展望あり

南門跡:「南門は、間口3間(12.3m)、奥行き2間(8.3m)の規模をもち、一辺55cm前後の巨大な角柱12本で上屋を構成する大型の城門」西門跡と同構造・同規模。

岩切観音:温羅の時代のあとの、平安時代に、新山、岩屋とともに山上仏教が栄えたようで、その時代の仏教信仰に関わる遺物か、といわれている。

●南門跡   岩切観音

岩切観音のところも高石垣、展望あり 古いウスタビガの繭 第4水門跡:長さ11.7m、高さ4m
←東門跡:「西門や南門に比べるとやや小ぶりとなる間口1間(3.3m)、奥行き2間(5.6m)の城門」。城内には20x15mの一枚岩の巨岩あり(左写真マウスオーバー)。
→東門の背後に鍛冶工房跡がある。ここは、鉄で造られた道具を修理した場所。9基の鍛冶炉と、炉の周囲からは、鉄滓・羽口・砥石などが出土したほか、鉄を鍛えるときに飛び散る鍛造剥片や粒状滓も多数発見されている。
東門跡(巨岩)   この辺が鍛冶工房跡か
→版築土塁以外に、総社平野側の城壁では6か所に石垣を築いている。地図の標識Dを過ぎたところから(岩切観音からも)屏風折れの高石垣が望める。

「屏風折の高石垣」:地形に合わせて大きく張り出しており、広い視野を利用して、城の東側方向の監視ができ、まさに守りの要と言える。
巨石 ●屏風折れの高石垣が見える

 

屏風折れの高石垣

  ●印はクリックして拡大
「屏風折れの石垣:鬼ノ城で最も著名な高石垣。血吸川の急崖上に舌状に構築されており、内側列石や敷石が残っていることから、建物等は存在しない可能性が高いと考えられる」(説明書き)

赤松に松ぼっくりがいっぱい 屏風折れの高石垣(説明書き)
↑足もとに松ぼっくりがいっぱい。上を見上げるとアカマツの木。木にもいっぱいついている。この山はアカマツ林で覆われている。アカマツ林は花崗岩の土壌と関係があるらしい。

屏風折れの高石垣から北側は、花崗岩の巨石が露出した山並みが見える。
  屏風折れの高石垣の北東に張り出し箇所 ●北側方面
屏風折れの高石垣の北東に張り出した箇所からみた総社平野
↑屏風折れの高石垣から東側の総社平野を見下ろすとこれまでの高石垣からの展望と同様、大きなゴルフ場が目につく。その先に広がる総社平野は黄砂のせいであまりはっきり見えない。
総社平野に、500年代に「たたら製鉄」の遺跡が発見されているが、異文化の人たちの技術だったかもしれないと言われている。
●石碑『岡山懸十五景地』から北東方向 花崗岩の風化土壌(砂状)

 

北門へ   ●印はクリックして拡大

屏風折れの高石垣から先は、北西方向に北門をめざして歩く。
タムシバの花は咲き始めたところ。アセビは咲いていたが、鮮やかなゲンカイツツジなどの花はまだのようだ。
足元に咲くスミレなどの春の山野草は不思議なことに見なかった。

北側の景色 ヒサカキ

『温羅旧跡』 アセビ タムシバ
→北門跡:「唯一背面側にある門。基本的な構造は他の西門・南門・東門と同じ掘立柱城門で、通路床面にはおおきな石を敷いている。規模的には大型の西門・南門に対し、東門とともにやや小型の城門」
長さ49mの土塁   ●北門跡

→ここが鬼城山の山頂となっている。

百済から逃げてきた技術者のもとで築かれた古代山城は日本書紀にも記載されていて朝鮮式山城といわれるが、この鬼ノ城は朝鮮系の要素がかなりあるのに日本書紀に記載されていない。このように由来がわからないお城は神籠石系山城と言われる。

山頂広場 山頂広場からの展望

 

吉備津神社と吉備路   ●印はクリックして拡大

←聖武天皇の発願により、天平13年(741)に全国に創建された国分寺の一つ。

→吉備津神社は大吉備津彦命を主祭神とする大社。桃太郎伝説の原型となったとされる吉備津彦命(きびつひこのみこと)と温羅(うら)にまつわる伝説が残っている。

備中国分寺の五重塔 北髄神門
本殿は過去2回の火事で消失したが、現在の本殿は、室町時代1425年に再建されたもの。本殿は京都の八坂神社につぐ大きさで、出雲大社の約2倍の広さ。
本殿と拝殿はもともと一体のものとして設計された建物。全国で唯一の吉備津造り(比翼入母屋造り・ひよくいりもやづくり)という建築様式を採用し、国宝に指定されている。
拝殿 本殿:比翼入母屋造り
本殿から続く365mの美しい廻廊は一見の価値がある歴史的建造物。自然の地形そのままに一直線に建てられている。
回廊   回廊の途中にある南髄神門

 

備中高松城   ●印はクリックして拡大
「高松城は、備前国に通じる平野の中心、しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年の中国役の主戦場になった城跡として有名」
「城は沼沢地に望む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築盛された「土城」」
●高松城址 備中高松城址資料館
備中高松城の水攻め:戦国時代に織田軍と毛利軍の戦いで、織田軍の先鋒羽柴秀吉が、高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ、難攻不落と言われた高松城を「水攻め」で攻略した。
水攻めのための堤防は、蛙ヶ鼻から足守川まで、約2.6kmにわたり堤防が築かれたとされている。
高松城水攻め   防水攻築堤跡

←備中高松城の水攻めにより城落ちが目前とされていた状況で、清水宗治自身が切腹することで、和睦交渉の条件として、毛利氏と織田氏の和睦を成立させ、5000名の 城兵の命を救った。

→星霜四百年、地下に眠っていた蓮が、沼の復元によって自然に生えた。

清水宗治の首塚 宗治蓮

 

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