2025年8月18日

今回は、福島県のお城、白河小峰城、二本松城、会津城という3つの100名城を訪問することに。どれもが歴史的にも重要なお城なので予習もかなりやったのだが、にわか知識では間に合わなくなり、3つのお城を混同してしまうようなことにも。この機会を利用して、しっかり復習しながらまとめたい。

まず、この日訪問した関東と東北の境目にある白河小峰城についての自分なりのまとめ。
@1627年初代白河藩主として丹羽長重が4年かけて小峰城を「奥州の抑え」として石垣を多用した近世城郭に大改修した。
A落し積み石垣が多く、その結果、半円状の形となり、それが目の形に見えたり、ニッコリマークに見えたりする。
B松平定信が(久松)家に養子に出され、後に第12代白河藩主となる。幕府老中も務めた。
C戊辰戦争白河口の戦いで焼失し、落城した。
D松平定信が家臣につくらせた詳細な絵図により、平成になって三重櫓が木造で忠実に復元され、他の城郭の木造復元の先駆けとなった。

第12代白河藩主で幕府の老中でもあった松平定信は、もともと寛政の改革で質素倹約、出版統制等の政策などを行った堅物な人物のイメージが強いが、せっかく『べらぼう』でも話題になっているので、さらにテレビやYouTubeなどからさまざまな情報を集めてみたら、いろいろな面を持つ興味深い人物だった。

@天明の飢饉では東北地方で多くの死者が出たが、定信の飢餓対策により、白河藩は死者を一人も出さなかったとか、南湖公園は大名庭園でありながら、身分の垣根を超えて誰もが楽しめるようにつくった、など領民思いなところがある。
Aさらには、生涯で源氏物語を7回も書き写したというぐらいの恋愛物語オタクだった。また農村部が働き手不足だたため、越後の女性を大募集して白河藩の男性との中を取り持った、恋のキューピットでもあった。
B田沼意次に対して賄賂攻撃を仕掛けた結果、老中にもいろいろものを言える立場(溜の間詰に昇格)になり、将軍家治がなくなったとたん手のひらを返して田沼意次を追い落としていった。



白河小峰城 - マップ   目次

-南北朝時代に結城親朝(ゆうきちかとも)によって築かれる。
-6世紀末の豊臣秀吉による奥羽平定時に結城家は改易され、白河は会津藩の一部となり、小峰城はその支城となる。
-江戸時代寛永4年(1627)に初代藩主となった丹羽長重によって、石垣を多用した近世城郭に改修された。
-その後、徳川四天王の榊原家の孫、本多忠勝の孫、そして松平(奥平)家、松平(結城)家、松平(久松)家(松平定信はこの家に養子に出された)、阿部家と7家21代にわたる白河藩主の居城となった。
-その後、1867年(慶応3年)に江戸幕府の直轄地となった。
-幕末慶応4年(1868)の戊辰戦争白河口の戦いによって本丸など主要な建物が焼失し、落城した。
-平成3年(1991)に三重櫓、平成6年(1994)に前御門が絵図や発掘調査委の成果をもとに木造で復元された。

 

●白河小峰城
●月見櫓ルート
●本丸御殿跡、三重櫓、前御門
●三重櫓内部
●帯曲輪ルート
●搦手門から外堀
●南湖公園

     

 

●白河小峰城

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本丸方面
小峰城歴史館は月曜日休館というのを確認せずに来てしまった。評判が良いと聞いていたので、別の日にまた訪れた。
『べらぼう』特集の展示、大きな3面スクリーンのシアター、小峰城歴代城主の展示説明など、評判どおりの歴史館だった。
  小峰城歴史館 白河市のマンホール
←「廃城後、1952年(昭和27年)には二の丸一帯に野球場が建設され、高さ約10m、幅約50mの石垣を天然のバックスクリーンとして活用された。ユニークな球場として、大きな話題を集めた。1956年(昭和31年)にはプロ野球の公式戦も行われた」とのこと。
二の丸跡は昔野球場だった   二ノ丸茶屋

 

月見櫓ルート   ●印はクリックして拡大

清水門が工事中なので、西側にある月見櫓跡に設けられた見学用階段から入る。帯曲輪門跡を通り、桜之門跡から本丸へ。

小峰城の石垣はいろいろな時代の石垣が見られるので石垣の観察だけでも非常におもしろい。↓

見学用昇降階段 ●帯曲輪門跡  


桜之門跡階段突き当り片側と西側の石垣は、規格化された切り石が隙間なく横一直線に積まれていて(打込接の布積み)、まるで板チョコのようだ。→

石材を斜めに積んだ「落し積み」の石垣もあり、半円状に見えるものも多い。清水門前石垣などがそれ。↓

●桜之門跡 切込接の布積

→清水門を入った真正面にある石垣は落し積みなので、半円状の形が多く、目に見えたり、スマイルマークに見えたりするらしいが、現在工事中で真正面からは見られない。桜門手前から斜めにその石垣の一部を見る、斜めからだとわかりにくいが、かろうじて目のような形の並びになっている箇所を見つけた。竹之丸跡からも何重にも半円状になっている箇所を見つけた。

清水門の真正面の石垣を斜めから(東側) 竹之丸跡から清水門前の石垣を見る

「中心部はまるで目のような構造。「鷹の目」とも称されるユニークな石垣。真正面から見ると目が2つ。入ってくるものに睨みをきかせているようにも見える」ともある。

←清水門西側の石垣も落し積みにより、半円状になっている。

●清水門西側の石垣も半円状   下から見ると目のように見える

 

●本丸御殿跡、三重櫓、前御門   ●印はクリックして拡大 

三重櫓と前御門は「白河城御櫓絵図」と発掘調査にもとづき、1991年と1994年に木造で忠実に復元されたもの。「白河城御櫓絵図」は、松平定信が家臣らに命じて城内の門、櫓などの37の建物を実測させ絵図を作成したもの。

●本丸御殿跡と三重櫓   前御門


この復元事業はのちに各地で盛んとなった城郭建造物の木造復元の先駆けとなった。掛川城天守(1994年)、白石城三重櫓(1995年)、新発田城三階櫓・大洲城天守(2004年)、金沢城の門や櫓(2001年〜2015年)などが次々と復元された。

●竹之丸跡からの三重櫓と前御門 松平家(久松)の星梅鉢家紋

小峰城を大改修したのは初代藩主の丹羽長重で、家紋は「X」だが、復元された三重櫓の瓦には久松松代家の星梅鉢の家紋になっている。
土塀に狭間 西側に張り出した土間が入口

三重櫓:本丸の北東隅に建つ三層三階の櫓で、小峰城の中心となる最も規模の大きな櫓。高さが約13m、一階が約12m四方、二階が約8m四方、三階が約4m四方の正方形となっている。三重櫓に使用した瓦は1万3千枚を超える。屋根に飾られる鯱は高さ約1.2m。外観は黒塗りの板を張った「下見板張」で、耐久性が高いとされる。
  東側と北側の張り出し 南側の張り出し
↑武家諸法度により、天守を建てられないので、この三重櫓が天守の代わり。でもさまざまな仕掛けのおかげで、あまり小さく見えない。
「最大の特徴は、1階の南北と2階に付く、切妻破風で飾られた大きな張り出しで、その下部は石落としになっている。とくに2階の張り出しは東側に大きく突出し、大きなアクセントになっている」↑
↑「また、南側は建物を櫓台いっぱいまで建てず、石垣の天端との間を空き地にし、そこに天端まで張り出しをもうけ、その左右に鉄砲狭間が開けられた白亜の土塀が築かれた。このため角度によっては、四重にも見える」
西端からの三重櫓    
→東端に建つ本丸三重櫓とは反対方向の西端(月見櫓跡や富士見櫓跡があるところ)に登ると、白河の街とその向こうに那須岳が見える。
なんと新幹線が走っているのも見えた(クリックして拡大)。ここは駅の近く。というか昔は駅の向こうまでお城だった。つまり昔のお城の中を線路が走っているということ。
  ●白河の街と新幹線と那須岳 「丹羽長重公築城跡」

 

●三重櫓内部   ●印はクリックして拡大 

1991年と1994年に他の城郭に先駆けて木造で忠実に復元されただけあって、階段も昔のまま急。窓には障子が取り付けられているが、これは他の城ではあまり見なかったような。。。木造に白い壁と障子でとても心地がいいが、石落としや狭間が各所に設けられていて、ここはあくまでも軍事的な場所であることはいうまでもない。

石落としと狭間 床ももちろん木造
階段も絵図どおりに急になっている 窓には障子が取り付けられている チョンナ目模様の柱

↑「柱と柱を渡す太い梁は丸太から加工されているが、伝統的な「チョウナ」(手斧)の道具を使って、仕上げを行っている。チョウナは斧の一種で、木を削った粗い痕をそのまま残す仕上げの方法。迅速な加工が求められた城郭建築では、丁寧なカンナ削りよりも、チョウナ仕上げが多用されていた」

2階 上部の構造  

←壁は白壁、各階隅部には耐震構造として「火打梁」がある。火打梁は地震や風による水平方向の力から建物を守るための「耐震構造」に使われる、梁と梁を斜めに結ぶ部材を指すとのこと。火打梁は現在も使われている。

三重櫓復元に使用された大杉に打ち込まれた鉄砲玉の跡は見逃してしまった。

火打梁   3階はかなり狭くなっている

 

●帯曲輪ルート

  ●印はクリックして拡大
地図にある帯曲輪ルート。藤門を出て、東側を歩く。ここでの石垣も途中から技法が変わっているものや、ここでも落とし積みで半円状の石垣が見られる。竹之丸東面にも切込接の落し積み技法が使用されているようで、半円状になっている。
●藤門と三重櫓 那須岳(藤門跡から那須岳が見える)
東側の石垣技法が途中から異なる 矢之門からの三重櫓

左写真A竹之丸東面に半円状の石垣あり

→矢之門の少し手前で東に曲がる道がある。ここは搦手門への道と勘違いしたところ。この門の名前はわからないが、ここから出たところからも三重櫓が見える。外側にも石垣が続いている。

↓元の道に戻って矢之門を入ると三重櫓北側。

三重櫓が見える 外側にも石垣が

←「三重櫓の北面石垣の一部では、大型で不定形の石材を使用し、石材の表面に粗く割った面を残す特徴が見られる。この石積みの特徴から、江戸時代開始の前後である、慶長年間(1596〜1615)頃に築かれたと考えられる」
この先は北側の石垣が続く。帯曲輪も広くて(本丸を西側から北側にかけて取り囲む場所、帯曲輪門から矢之門まで約8,000uの広さ)、ここから那須岳がばっちり見える

●三重櫓北側 小峰城跡で最古とみられる石垣
←東日本大震災で、白河市では震度6強を観測し、小峰城全体で10箇所の石垣が崩落した。ここ北側でも左写真のように2箇所崩落し、1201個の石材が崩落した、また西側では625個の石材が崩落した。周辺も変形が生じていたことから、西面から北面まで一体的に解体し、修復を行った。

北側の石垣と帯曲輪(西側の石垣)

パネルの北側の崩壊した箇所の写真  
北側の帯曲輪から西側には那須岳が見える

←石垣に傷のようなものが入っているのは傷ではんく、石垣を美しく見せるための化粧。石垣を細かく削ることで施される。


→北側の帯曲輪は気持ちいい空間で、ここから那須岳が見える↑→

お化粧をした石垣   北側の広々とした帯曲輪と那須岳

 

●搦手門から外堀   ●印はクリックして拡大 

搦手門から枡形を抜けるとお堀。少し東側を歩くと、そこからも二重の石垣が見える。北側と西側の外堀越しにも二重の石垣。後から行った東側丘陵地にもつい最近発見された石垣がある。壮大な石垣に圧倒された。

搦手門 搦手門の枡形


←搦手門から外に出ると外堀が現れる。その上には三重櫓。

→外堀に沿って少しだけ東側に歩くと二重の石垣が続いている。この道をそのままずっと東に行くと東側丘陵地につながり壮大な石垣が続くが、ここへは後から車で通ることになる。
●外堀と城   東側に二重の石垣
搦手門近くのお堀まで戻り、ここから堀に沿って、城郭の北側そして西側を歩く。ちょうど帯曲輪跡の外側になるが、本丸を囲む石垣と、帯曲輪を囲む石垣の二重石垣が見えて、迫力満点。帯曲輪を囲む石垣は土塁?の上に石垣があるので鉢巻石垣か。
●二段の石垣で迫力満点 ●本丸の石垣と帯曲輪の鉢巻石垣か  
←外堀の南西の角までやってきた。広いお堀の向こうに木で覆われた二重の石垣が建つ壮大な風景。ここから少し東に行ったところに会津門。

→会津門:小峰城の北西側に設けられた会津町の武家屋敷から三之丸に入る門で会津町に通じるため、この名称となった。
南西の角   会津門

←搦手を出てずっと南東に進むと、東側丘陵地の石垣にやってくる。今回は車で近くを通った。
バイパス道路(今の白河バイパスか)を通す工事のために2021年から2022年にかけて杉林を切ったところ石垣が出現したそうで、つい最近発見された180mにわたる石垣。

お堀に睡蓮 ●東側丘陵地の壮大な石垣  

 

●南湖公園   ●印はクリックして拡大 

12代白河藩主・松平定信が老中を終えてから、「大沼」と呼ばれていた湿地帯に堤を作って水を貯め、庭園の要素を取り入れて享和元年(1801)に築造された。定信は、武士も庶民も共に楽しむ「士民共楽」という理念のもと南湖を築造した。
時間がなく、さっと立ち寄っただけだったので、南湖に睡蓮とその向こうの那須岳の絶景を楽しむことができた。

●睡蓮と那須岳 睡蓮

 

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