2024年5月30〜31日

ちょっと遠いけど熊本城は絶対に訪れたかったので、くじゅうのハイキングと一緒に計画を立てて、はるばるやってきた。

2016年の熊本地震で甚大な被害を受けた熊本城は、城内いたるところが崩壊していて復旧中のため、特別見学通路からのみの見学となる。しかも平日なので北ルートは閉まっており南ルートのみ。
でも特別通路という通常の目線とは異なる角度から眺めることができ、これは今しかできないこと(というか私にとっては通常の目線での熊本城が未知なのだが)。完全な復旧は2052年度になるということだが(石垣の解体、積み直しなどは気が遠くなるほど膨大な作業)、ありがたいことに天守閣はすでに復旧している。
今回はせっかくなのでボランティアガイドさんにいろいろ説明していただきながら特別見学通路を歩いた。

120以上の井戸を掘り、食料になる銀杏の木を植え、外堀でレンコンをつくり、土塀にかんぴょう、畳の芯に 芋茎ずいきを埋め込んで籠城戦に備えていた、という話は有名だが、これは加藤清正が朝鮮出兵時に兵糧もろくに貯蔵できていない城で籠城戦となり凄惨な状況となった体験を大いに生かし万一に備えていたという。
また、下部はゆるやかで上部に向かうにつれて急になる独特の反り(「武者返し」と呼ばれる)は、美しいだけでなく、攻め込んでくる敵を撃退するためのもの。さらに城の虎口から桝形を幾重にも並べ(連続桝形)、清正はまさに「難攻不落の城」を築城した。その実力が試されたのは、皮肉にも270年後の城が必要なくなった明治時代のこと。
今では、「やりすぎ」とか「過剰防衛のお城」と呼ばれていたりもするが、熊本城は、その規模の大きさ、堅い守り、見事な石垣で、優美さと堅牢さを持ち合わせた屈指のお城だということを実感した。




熊本城 - マップ   目次

豊臣秀吉に仕えた加藤清正が、天正19年(1591)ごろから築城を計画し慶長6年(1601)から6年の歳月をかけて慶長12年(1607)ごろには完成。漆黒の下見板張りで覆われた堅固な姿は、慶長期に築かれた「豊臣系天守」を代表するもの。天守には大型の千鳥破風や唐破風が設けられ、室内の部屋には畳みが敷かれて、襖や陰には狩野派の絵が描かれた。安土城や豊臣大阪城の豪華な室内装飾を受け継いだ数少ない天守。
望楼型・連結式の大天守と小天守。大天守は一重と二重・三重の二つの入母屋造りの建物の上に望楼を重ねた五重六階(大天守の高さは約32.5m、現存の姫路城天守より若干高い。)小天守は、三重四階(約19.1m)。最盛期には櫓が49あり、そのうち五階櫓が6つもあった。
西南戦争直前の明治10年に熊本城の天守は火災により焼失。焼失後は天守のない状態が長く続いたが、昭和25年に鉄骨鉄筋コンクリートによる再建が実現した。
平成28年の熊本地震では大天守の石垣が大きく崩壊することはなく、変形などがみられた一部の石材をおよそ2年間かけて積み直した。現在大天守・小天守は修復済み。

 

●街から見えるお城
●未申櫓・数寄屋丸・飯田丸五階櫓

●連続桝形・二様の石垣・東竹の丸櫓群
●天守閣周囲
●天守閣など
●天守閣内部
●熊本城一周
●市役所から見た熊本城とくまモン

     

 

●街から見えるお城   ●印はクリックして拡大

熊本城はホテル、NHK、アーケード、デパートなど街のいたるところから見え、熊本市民のよりどころになっているのがわかる。
2016年の熊本地震後も、天守をいち早く復旧させて市民を励ます存在になっているに違いない。

ホテルから ホテル14階から夜

NHKから アーケードから マンホール(小さいバージョン)
加藤清正:豊臣秀吉の子飼いの家臣。「賤ヶ岳の七本槍」や朝鮮出兵時の「寅退治」伝説などから戦上手であり、築城の名手でもある。秀吉亡き後は、豊臣家滅亡をもくろむ徳川家康に急接近した。関ヶ原の戦いで天下を取った徳川家康から、肥後国一国と豊後国の一部を与えられ、加藤清正は熊本藩主になった。そういった縁もあり、加藤清正は熊本などで「清正公さん(せいしょうこうさん)」と呼ばれ、現在でも親しまれている。
デパート前から   加藤清正像

←ここには、入城チケット売り場、ワクワク座、お食事、軽食、おみやげものなど様々な店が集まっている。ワクワク座では「熊本城VR映像」や「熊本城被災・復旧プロジェクションマッピング」、クイズコーナーなど、楽しみながら熊本城を知ることができるコンテンツがいっぱい。

桜の馬場城彩苑   人の顔と体が描かれた石(瓦の裏に)

↑「ワクワク座」には、熊本地震で崩れた石垣の中から見つかった、らくがきのような人の顔と体が見られる石が。

↑(マウスオーバー)熊本地震で天守閣最上階付近から落下した瓦の裏には、昭和34年の復元工事にあたり「瓦募金」を行った人の住所都市名が書かれていた。

この階段を上って→

この道を行くと未申櫓が左手に

 

 

未申櫓・数寄屋丸・飯田丸五階櫓   ●印はクリックして拡大

←特別見学通路に入る前に未申櫓に。未申櫓は西出丸の南西角にある三階櫓。櫓台の石垣が高い!
明治時代に解体されたが平成15年に木造で復元された。そのわずか13年後の平成28年(2016)に熊本地震が起きた。この方向からは影響ないように見えるが、櫓の西側を見ると石垣や塀が無残にも崩れていた。→

●未申櫓   ●西側の石垣が崩れている

←ここからは特別通路南口へ。本日は平日なので北口からの道は歩けない。城内はまだ手をつけていない崩落箇所が多いため、天守閣までは城内を自由に歩くことはできない。高く造られた通路(6m)から見えるものだけを見学することになる。

特別通路南口へ   特別見学通路

←茶会などが催されていた数寄屋丸の建物は地震でうねり、石垣も崩れている。
→崩れた箇所のすぐ右側にピンク色のハートマークがある。これはイノシシの目をかたどった猪目(いのめ)と呼ばれる文様で魔除けの意味がある。この猪目石が熊本地震で壊れかけた石垣を守ったといわれている。地震によって特別通路(高さ約6m)が造られて目線が高くなったために初めてこの石の存在に気づいたそうだ。

●数寄屋丸   数寄屋丸石垣のハートマークの猪目石
→飯田丸五階櫓は、2016年の熊本地震の際に、下部石垣が大きく崩落したが、角石のみで櫓を支えている姿(「奇跡の一本石垣」)はテレビでも話題になったし、被災した人々に勇気を与えた。その後、櫓・石垣共に解体されて、現在石垣の積み直しは終了しているようだ(左写真マウスオーバー)。←
飯田丸五階櫓(積み直し済の石垣) 地震後の「奇跡の一本石垣」

 

●連続桝形・二様の石垣・東竹の丸櫓群 ●印はクリックして拡大 

→竹の丸からの通路はくねくねと曲がっていて、通路まわりの石垣上には櫓や櫓門、塀などがあったため、どの方向からも攻撃を受けることになり、攻め手にとってここを突破するのは困難な構造だった(連続桝形)。
残念ながら今回は、そこを通ることはできないが、上から見ると構造がよくわかる。

右写真から続く連続桝形← ←左に続く連続桝形(崩れた石に番号)
←天守とともに、美しい2種類の「扇の勾配」の石垣を見ることができるスポット。右側が加藤清正が築いた傾斜が緩やかな石垣(打込接乱積)で、その左側に息子・忠弘が築いた傾斜の急な新しい石垣(打込接布積)が築き足されている。加藤清正の石垣の隅部は、忠弘のと比べると、はっきりとわかる算木積みにはなっていないように見える。
●天守と御殿 ●二様の石垣  

東竹の丸櫓群の外側を市役所から見ると←の点線部分になるが、本丸南東方面を防衛していた。今でも400年前の櫓が連なり、横矢掛かりが連続している。
地震後でも下のように現存のままだが、城内側を見ると、崩れないように石のかたまりで建物を支えているのがわかる。現在復旧中。→

市役所から見える東竹の丸櫓群  
東竹の丸櫓群の源之進櫓の城内側 源之進櫓から少し空いて四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓の城内側

←石垣の一部に白い丸いマーカーが付けられていて、石が動くと検知されるようになっていて崩壊を防ぐシステムのようだ。

→井戸の周囲の石垣が崩れているが、黒く焼けているのは西南戦争の前の火事によるものらしい。

石垣に白い印   井戸

 

●熊本城天守閣周囲   ●印はクリックして拡大 

↓特別見学通路はここで終わり。本丸御殿は石垣と石垣をまたぐように建っているため、床下には闇リ(くらがり)通路と呼ばれる地下通路がある。この通路を抜けると天守の前の広場に出る。
→御殿の屋根は唐破風なのだが、その上の瓦の形が、掛川城の御殿の起り(むくり)破風を思い出させるような形をしているのは気のせいだろうか...。


地下通路:闇り通路 御殿の唐破風屋根
本丸御殿は西南戦争で消失したが、2008年にその半分ほどが復元された。ところがそのわずか8年後の2016年に地震が起き、石垣の一部崩落、床の傾き、壁のひび・剥がれなどの被害がでたため、本丸御殿の中は見学できない。
大広間の一番奥に「昭君の間」と呼ばれる華麗な一室があった。いざというとき、大阪城から秀吉の遺児秀頼を救出して保護するための部屋だったと言われる。
天守から見下ろした本丸御殿 御殿の瓦は細川家の「細川九曜紋」

隣の石垣が茶屋のような建物に崩れかかっている。熊本地震は二回とも夜だったため、この建物にも誰も人がいなくてよかった。

井戸(水面が確認できる)    

→逸話:横手五郎は天正17年(1589)の天草一揆で加藤清正に打たれた木山弾正の子。怪力を生かして隈本城の築城に加わり、清正に近づいて父の仇を討つ機会をうかがっていたが、素性を見破られ、井戸を掘っている最中に生き埋めにされたという。五郎が首に掛けて運んだという「首掛け石」も残されているが、実は本丸御殿にあった手水鉢の台石である、というお話。

修復中の宇土櫓   首掛け石
←上記「数寄屋」の反対側。「数寄屋」という風雅な名称に反して江戸時代には周囲に複数の櫓が立ち並び、守りを固めていた。
→数寄屋丸二階御広間に向かう「御待合口」は、入口の装飾として丁寧に加工した切り石をモザイク状に組み合わせており、現在ではその様子から「地図石」と呼ばれている。その地図石も地震により無残な姿に。
反対側の数寄屋(複数の櫓台石垣)   地図石(もとはこのようになっていた)

 

●熊本城天守閣など

  ●印はクリックして拡大 


←大天守の石垣はゆるやかで美しい扇の勾配(清正流石垣)になっているが、隅部は算木積みにはなっていないようだ。のちに増築された小天守の方は、はっきりとした算木積みでより頑強なつくりとなっている。
●熊本城天守閣 ●ゆるやかな扇の勾配  
最上層の梅鉢懸魚(うめばちげぎょ) 三花蕪懸魚(みつばなかぶらげぎょ)(蕪懸魚) ●西側から見た天守
↑懸魚(げぎょ):「魚を懸ける」というこの変わった名前は、もとは燃えやすい木造建築の屋根に水を象徴する魚をかけることで火伏せのおまじないとしたことからきたとか。
小さな破風には梅鉢懸魚を、通常の破風には蕪懸魚を、大型の入母屋破風などには三花蕪懸魚を付けた。
加藤家の家紋「桔梗紋」 「慶長四年八月吉日」の銘が入った滴水瓦
↑今までのお城訪問で、滴水瓦を使用していたのは姫路城だけで、久々に見る滴水瓦。
「文禄・傾聴の役」に参戦した全国の大名は、朝鮮半島の寺院・宮殿などに葺かれた屋根瓦を船積みして日本に持ち帰った。清正をはじめ大名たちは、城郭の屋根瓦として挑戦的なデザインの瓦を多く使用した」という説明がある。デザインも模倣しているようだ。
小天守の忍び返し 石落とし  

↑小天守の石垣境には鉄串の忍び返しがめぐっている。一階の各隅には石落としがある。

←大天守台石垣上には台より大きな土台材が敷かれている。すなわち一階は石垣より大きな構造。

一階が石垣より大きい

天守前の広場でショーが行われていた

 

天守閣内部

  ●印はクリックして拡大

←地震の振動を吸収する「制震ダンパー」が導入されている。

小天守一階のそれぞれの隅には外側に壁面が張り出した「石落とし」があり、上方に狭間もある。→

制震ダンパー 石落としと狭間

最上階内部 ●最上階から東側 東側に天守の影

↑最上階東側からは熊本の街と遠くは阿蘇山が見える。

→先ほど通ってきた特別見学通路の南ルートが見える。その手前が本丸御殿。

→→その西側に数寄屋丸の屋根が見える

●最上階から南側 ●最上階から南西側

←北側には小天守、西側には熊本城の石垣の石が切り出されたとされる金峰山(一ノ岳)が見え、手前には二の丸、三の丸、そして解体中の宇土櫓が見える。また土日に通過可能となる北ルートも。

●最上階から北側 ●最上階から西側  

 

●熊本城一周

  ●印はクリックして拡大 

次の日、西出丸を出発して熊本城の外側を一周してみた。外側からも地震の影響が甚大であることがよくわかった。

→西出丸からは宇土櫓、小天守、大天守が並んで見えるのだが、宇土櫓は現在、全体を素屋根で覆い、一度解体した上で復旧させる工事が行われている。


●西出丸からの天守群 東十八間櫓・北十八間櫓の石置き場
←西出丸の北西角に位置する三階櫓。櫓は明治時代に解体されたが、平成15年(2003)に木造復元した。平成28年(2016)の地震では、櫓下の石垣が大きく崩落して角石のみで櫓を支え、さらに東側に延びる石垣もほとんどが崩落した。その隣には崩れた石がずらりと並んでいる。→
戌亥櫓 崩壊した戌亥櫓から東側に延びる石垣と石
北大手櫓門跡の石垣。熊本地震により、石垣の崩落こそ免れたが、亀裂が入り大きく膨らむなどの被害があったので、二次崩壊を防ぐために、ネットを張り、大型土のうを積んで応急的な安全対策を施している。→
  北大手櫓門跡 第三の天守、宇土櫓
↑「第三の天守」とも呼ばれる宇土櫓は地上五階・地下一階、建物の高さは約19m、土台石垣の高さは21m以上と大天守に次ぐ大きさ。西南戦争直前の火事で大小天守は炎上したが、宇土櫓は焼けずに残った。熊本城では江戸時代から残る唯一の五階櫓。平成28年(2016)の地震でも耐え抜いたが、建物全体が傾き、五階櫓の壁漆喰・床などが破損した。土台石垣も大きく膨らんだ箇所がある。現在復旧中。
加藤神社鳥居 加藤神社拝殿(くまモンがいる!)

↑加藤清正公をお祀りする神社。拝殿前には、くまモン「清正公武者姿くまモン」像が鎮座している。
←加藤神社から見た大・小天守。個人的にはここからの天守がお気に入り。先日の音楽の日(7月13日)には、加藤神社のステージでここから見える熊本城を背景にWANIMAが歌っていたが、どちらもとてもかっこよかった。

●加藤神社からの天守   ●北側からの石垣の横矢掛かり
←北十八間櫓東十八間櫓が接続している。江戸時代から数回の修復を経て受け継がれた北十八間櫓と東十八間櫓は、2016年の地震によって、「櫓と土台の石垣が崩落したため、倒壊した櫓の部材と崩落した石材を回収し、修復に備えて整理・保管している(西出丸の近くの石置き場)」。→
北十八間櫓   東十八間櫓
→飯田丸五階櫓は加藤清正の息子、忠広の時代に建造され、次の細川時代に引き継がれた。櫓は明治10年(1877)の西南戦争直前に解体され石垣だけとなるが、平成17年(2005)に復元された。
石垣の復旧工事は→のようにほぼ完了している。2024年度に櫓本体の再建工事に着手し、「2028年度中の完成を目指す」とある。
242mの復旧した長塀   ●飯田丸五階櫓石垣復旧完了

 

●市役所から見た熊本城とくまモン   ●印はクリックして拡大 


市役所14階から見た熊本城
くまモンぬいぐるみとフィナンシェ 熊本城最上階からも見えるくまモン 加藤神社のくまモン
市役所前からお城を見つめている清正公 熊本市電 熊本ラーメン

 

戻る