松江城:2024年11月28日

『サンライズ出雲』で26日朝に出雲に着いときはすでに雨だった。天気予報は数日間ずっと雨。この日は時折大雨になるなか出雲大社へお参り。

松江城を訪れる予定だった27日も一日中雨の予報だったため中止。次の日は天気予報が変わって雨から曇りになる時間帯があるようなので28日に延期。

28日は、幸いにも青空を背景にした天守の写真を撮ることができた。でも当日の早朝、西方向に出た虹が示すとおり、結局雨が降ったりやんだりの天気になり、天気に振り回されて、松江城を満足のいくまで廻り切れなかったのが残念。

現存する12天守のうちの一つで、天守の完成時期と構造的な特徴の解明により、2015年に国宝となった松江城。

黒い天守と呼ばれているが、望楼部の三・四重と付け櫓は下見板張で白漆喰の部分があるし、二重屋根の出窓は白壁なので、全体的に黒と白の色のバランスや形のバランスもよく、いぶし銀のような味があって、その渋さがいいと思う。

確かに姫路城のような華やかさはないが古武士のような風格が今まで訪れた現存天守の中で一番出ていると感じたお城だった。自分の中では、この古武士のようなお城には同じ現存の犬山城がお似合いのカップルになりそうだなと勝手に思った。



松江城 - マップ   目次

堀江吉晴が1611年に完成させた。以来、堀尾氏、京極氏、松平氏の居住であった。天守は、四重五階地下一階の望楼型、高さは約30m。現存天守。

堀尾吉晴は豊臣家の重鎮。小田原北条攻め後、旧家康領のうち浜松12万石を家康監視の城として拝領した。その後吉晴は家督を忠氏に譲った。

関ケ原の戦いでは東軍につき、徳川方の勝利に貢献。出雲・隠岐24万石が与えられ、堀尾父子は出雲に入国した。旧領主尼子氏が築いた月山富田城に入ったが、新たな居城地を亀田山に決定し、松江城を築いた。

堀尾氏断絶後に入った京極氏も一代で絶え、その後、松平氏の居住となり雲州松平家として10代続いた。

 

●松江城
●大手門から天守へ

●天守内部
●石垣
●北側
●二ノ丸
●塩見縄手
●その他
●出雲

     

 

松江城   ●印はクリックして拡大
朝ホテルから西側のお城方面に虹が見えた。拡大してみるとその外側にも薄い虹が出ていて二重の虹になっていた。わくわくする半面、朝、西側に出る虹は雨のサイン。この日は晴れ間や曇りの時間もあったが、結局時々雨も降るという変わりやすい一日だった。
  ●ホテルから見える虹とお城 ●ホテルからの天守ズーム
ライトアップ 城とお堀と堀川ねぐりの船 ●お堀とお城
  紅葉の南櫓・中櫓と天守、高石垣、お堀  

 

大手門から天守へ   ●印はクリックして拡大 
天守まで:堀尾吉晴の像がある大手口から入り、広い馬溜から南惣門を抜けて左の階段を上がる。それぞれ桝形が形成されている三ノ門跡、二ノ門跡、一ノ門跡を抜けると、本丸へとたどり着く。すぐ左手には入城券売り場があり、右手奥に天守が見える。

堀尾吉晴の像 大手門
←馬溜は南北46m・東西45mの広大な曲輪。進入した敵を堅固な大手門と二ノ丸上ノ段の高石垣(高さ約13m)から攻撃する。
馬溜から南惣門に入り左手の階段へ   太鼓櫓の下の階段を上る
三ノ門跡 二ノ門跡 南多門と一ノ門跡(チケット売り場)
雨が続いていたが、天守の写真を撮るとき、背景が青空になってくれたのはよかった。その後はまた雨が降ったり止んだりの天気に。

●天守 ●南西方向からの天守

 

 

↑→一・二重と大入母屋破風は全面板張、三・四重と付け櫓は下見板張、二重屋根の上の入母屋張り出し部は白壁で華頭窓がある。軒裏は付け櫓以外は黒く塗られている。鬼瓦には、名前通り「鬼」の瓦。

  全板張りと付け櫓の下見板張り 華頭窓と鬼瓦(松平家の葵の紋)

 

●天守内部

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←地階にある石組の井戸。深さ24mで、常時飲料水が得られた。浜松城でも同じような井戸が天守地階にあったのを思い出したが、浜松城は堀尾吉晴の前任地だった。城内には井戸が全部で21ある。
附け櫓入口 地階井戸  

←昭和の解体修理以前に天守に載っていた鯱。木製鯱として我が国最大。

→1611年に完成したということを証明する祈祷札が松江神社から見つかり、札には上下に穴が開いていたのだが、これが、地下の柱に釘穴がぴったりはまった。この祈祷札により、完成年度が明らかになり国宝の決めてとなった。
  国宝の決めてとなった祈祷札
←石打棚:「安定した姿勢で狭間や窓から鉄砲や矢を放つための棚上の台。松江城天守では附櫓南東面と地階南東・南西隅の三箇所の石垣の上に設けられている」
石打棚   矢狭間と鉄砲狭間

一階と四階の上り口には水平の引き戸がついていて階段の入口を閉じることができる。
一階 階段に引き戸がある  
→一階から4階には柱の周りを板で囲み、金輪やかすがいで固定した柱が130本ある(包板)。現存天守では松江城のみ。関ケ原合戦の戦いによって家康公から領土を与えられた大名たちが全国で一斉に城を立て築城ラッシュになり木材不足になったため、大きな柱が使えなかった苦肉の策。



包板 石落とし



←天守の柱に番付(柱の配置を示すもの)を見ることができる。地階から二階は掘り込み番付、三階から五階が墨書き番付。
掘込番付: 「上四ノ三」  

三階武者隠し

→天守の階段には桐材が使われている。軽くて腐りにくく、燃えにくい上質の木材だが、建築材として使われるのはまれ(松江城のみ)。

  桐材の階段 華頭窓

←西側大破風の内側を利用して藩主用の箱便所が設けられている。

→五階へ至る階段や五階の階段開口部の手すり材には曲線や掘り込みなどの意匠が施されている。

4階の便所

  5階へ至る階段の手すり
最上階、5階 5階から南側の宍道湖方面 ●5階から東側

 

●石垣   ●印はクリックして拡大 
→二ノ丸上の段南面、東面の南櫓・中櫓・太鼓櫓が並び立つ石垣は長さ77.9mで城内で最長、高さ(南櫓から中櫓)は13.7mで城内で最高である。

刻印の多さは全国屈指で、松江城の特徴の一つのようだが、堀尾氏の家紋「分銅紋」を見つけることができなかったのは残念。

●二ノ丸上の段、南・東面の高石垣 二ノ丸下の段の石垣の横矢掛け
●太鼓櫓と馬溜の高石垣 猪目の石(矢穴) 刻印

→一ノ門につながる南多門の石垣には、鏡石14個も並べられている。

→→天守西側の石垣。成形は不完全だが算木積になっている。

  南多門の鏡石 天守西側石垣

→北惣門橋近くの石垣隅部は算木積みには見えるものの今にも崩れそうで不安定に見えるが大丈夫なのだろうか。

←北惣門橋は東側からの城への入口となる。

北惣門橋と船着 算木積み?

 

●北側   ●印はクリックして拡大 


水ノ手門は本丸北側に通じる唯一の門。見るからに堅固な桝形門。搦手口から進入した敵をここで迎え撃つ。
水ノ手門から北ノ門までのエリアが腰曲輪。
馬洗池馬洗池(お城と池) ●水ノ手門跡
桝形 天守北側 北ノ門跡

 

●二ノ丸  


南櫓:東南の石垣側 中櫓:石垣側 太鼓櫓:石垣側
南櫓内部 中櫓 庇のある太鼓櫓(太鼓)

平成12年〜13年に、太鼓櫓・中櫓・南櫓が木造で完全復元された。
太鼓櫓は、大手口を保護する重要な櫓。中には城内に時刻や号令を告げる太鼓がおかれていた。入口に庇がついている。
中櫓も大手口を見下ろす高石垣上にある。
南櫓は三の丸方向を望む高台に位置している。二重櫓。

鬼瓦 興雲閣

 

●塩見縄手    


塩見縄手は、かつて上・中級武士の屋敷が建ち並んでいた500mほどの通りのこと。その中に小泉八雲旧居と記念館がある。

来年後半のNHK朝ドラ「ばけばけ」は、小泉八雲の妻、小泉セツがモデルのドラマなので今から楽しみだ。

小泉八雲記念館と旧居 八雲の書斎と向こうはセツの部屋
廊下と庭 武家屋敷 塩見縄手の道

松江城の北側、堀川沿いにある塩見縄手は、武家屋敷や松並木が並ぶしっとり落ち着いた雰囲気のある場所。江戸時代にタイムスリップしたようだ。
松並木 堀川めぐりの船

 

●その他    


雨が多くて観光がままならないこともあったが、そういうときは松江ならではのおいしいものをいただくことによって、心の方は晴れ晴れした。

『海鮮うまいもん料理京らぎ』の海鮮丼 『季節の風 蔵『のしじみ丼
『浪花寿司』の蒸し寿司 『四季の団子と甘味喫茶 月ヶ瀬』のだんご 松江市のマンホール(武家屋敷)

 

●出雲    


一時大雨の中のお参りとなった。
八足門の前に巨大な丸が3つセットで描かれた箇所があるが、これは2000年に古代御本殿の御柱がそのまま3本束ねの姿で見つかった跡(心御柱)。宝物殿で出土された心御柱を見ることができた。当時の社殿は高さ48m、階段の長さは109mで勢溜の大鳥居まで続いていたそうだ。

勢溜の大鳥居 松の参道

御慈愛の御神像(ムスビの御神像)

八足門、本殿の上部が見える 心御柱(しんのみはしら)跡
十九社 本殿裏側 素鵞社(そがのやしろ)
西側拝礼所 神楽殿 出雲マンホール(竹野屋)
コーヒーバラパン 出雲:『平和そば』の出雲そば(ぜんざい) サンライズ出雲

 

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