2024年9月28日

箕輪城のみどころは何といっても三の丸南側に位置する「大堀切」(大堀切:敵が侵入路として利用する可能性のある山の尾根などを切って設けた堀)。空堀ではなく、山の尾根を途中で断ち切るもの。

これまで訪れた数少ない中世のお城の中で、堀切の大きさを比較してみると、高天神城や春日城の堀切は小さいし、月山富田城の本丸と二の丸の間の大堀切はかつて幅10m、深さ約8mあったようだが、箕輪城の堀切は幅30m、深さ9mもあるので比べ物にならないぐらい大きい。それが虎韜(ことう)門までずっと続いていて城を南北に2分しているのだから、とんでもない大きさだ。

空堀においても、本丸南堀、本丸西堀、本丸北堀などどれも巨大。

歴史的には、箕輪城は武田信玄の6度にわたる侵攻を撃退した、上野の国の頑固武将「長野業正」の居城として有名だそうだが、こうした堅固なお城のつくりも役に立ったこと間違いない。

その後、徳川家康が関東を治め始めてからは、井伊直政が居城として、石を用いた近世城郭に大改修した、とのことで石垣などは井伊直政時代のもの。
お城の中心部を歩いただけでもかなりの広さを感じたので、全体的にはものすごく広いお城。

ちょうど秋の花が咲き乱れていたので、花も一緒に観察した。
帰りに近くにある保渡田古墳群(前方後円墳)のうち2基にも訪れた。



箕輪城 - マップ   目次

箕輪城は、1500年ごろ、長野氏によって築かれた。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世にあくまでも関東管領山の内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。徳川家康が関東を治め始めてからは、井伊直政が居城として、石を用いた近世城郭に大改修した。

箕輪城跡は榛名山の東南麓に広がる標高約270mの丘陵上に、御前曲輪、本丸、二の丸、郭馬出という尾根上の曲輪を城の中心軸として、線対称的に多くの曲輪を丘陵上に配している。南北1,100m、東西500m、城跡面積約36haと戦国時代の上野国において屈指の規模を誇る城郭だった。

 

●搦手門から木俣へ
●郭馬出西虎口門と大堀切
●鍛冶曲輪〜三の丸〜蔵屋敷
●本丸・御前曲輪
●二の丸・郭馬出
●保渡田古墳群

     

 

●搦手門から木俣へ

  ●印はクリックして拡大

搦手口から入る。周囲には彼岸花など、秋のお花が咲き乱れている。
「長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から考え、ここが大手口であって、城の南方に城下町が構成された井伊氏時代に大手口が南面に設けられてから、ここが搦手口となったと言われている」という説明板がある。→

ここから入る(マルバルコウソウ) 搦手口
城山入口フラワークラブ(ひまわり) ここを郭馬出(左)方向へ 赤と白の彼岸花
木俣:他の城では見られない木俣という曲輪。「家臣団の屋敷地の一つと思われる。郭馬出西虎口門が造られたころに一部が埋められ、現在のような平場になったことが判明した。等間隔で柱穴の並ぶ箇所があり、少なくとも3棟の掘立柱建物があったことがあきらかになった」
クサノオウと蝶 木俣(きまた)

 

郭馬出西虎口門と大堀切 ●印はクリックして拡大
櫓門が見えてきた。これが、2016年に復元された郭馬出西虎口門。郭馬出の西側にあるこの櫓門は、徳川氏時代に井伊直政が城主だった頃に建てられたもの。
城に設けられた7か所の門の中でも最大規模を誇り、箕輪城を象徴する城門の一つと想定される。
これがないと建物は全くないということになるので復元されてよかった。
郭馬出西虎口門と大堀切 ●郭馬出西虎口門

←櫓の屋根は、近世城郭で一般的となる瓦葺ではなく、手で割った杉材を使った板葺きであることかが、中世から近世への過渡期の特徴を示している。壁は竹を組んだ壁。

門をくぐった先は郭馬出となっているが、くぐらないで大堀切に下りた。後で、二の丸の方から郭馬出に出ることになる。

手で割った杉材を使った板葺き   大堀切に下りる(階段を下りる)

←大堀切を渡る唯一の土橋。城最終時には土橋の裾に川原石を用いた野面積みの石垣が築かれ、盛土された。
廃城後は土橋の一部が削られたり、斜面が崩され堀が埋まったが、2014年に削れた場所を盛土し、城最終時の土橋幅に復元し、石垣も復元整備した。
大堀切から郭馬出西虎口門を見上げる ●大堀切の土橋と石垣
大堀切:幅約30m、深さ9mもある、大堀切は東西に走り、城を南北に2分する役割がある。北側がお城の中心地。南側が攻められても北側を守れるほど大規模な堀切。当時は現在より7mも深かったそうだ。堀底には石垣が積まれていた。このスケールが自然のものではなく、人力で造られたというからすごい。→

大堀切を西の端の大堀切口まで歩くと、階段を下りて虎韜(ことう)門に出た。→→
大堀切の堀底を歩く(階段) 虎韜(ことう)門

 

●鍛冶曲輪〜三の丸〜蔵屋敷   ●印はクリックして拡大 
虎韜(ことう)門に出たら今度は「中央コース 三の丸 約370m」の標識に従って、再び林の中に入っていく。カラスウリがちょうど実になる頃で、オレンジ色に熟れる前のスイカ模様がかわいい。
カラスウリの実(ヤブヅルアズキ) 林の中へ
うっそうとした林の中に現れたのは鍛冶曲輪。→
「鍛冶場のあった所で、中世の大きな城にはよく見られ、ここで武具等を作製、修理した」

鍛冶曲輪の石垣

鍛冶曲輪

←「追手門から本丸へ至る大手ルートを固めている井伊時代に使われていた石垣。箕輪城内で最も高い石垣が設置されている場所。高さは最高約4m。関ケ原の戦い以前の関東地方の城郭でも有数の規模。川原石を用いた野面積みで、一人では運べない大きめの石を用いている」
右側は大堀切 ●三の丸の石垣
ヤブミョウガとマムシグサの実

三の丸(蔵屋敷へ)

蔵屋敷

←蔵屋敷と本丸の間にかかる木橋。
長さ約29m、幅2.4m、高さ6m。

木橋の下は空堀だが、この堀もかなりの大きさ。→

本丸蔵屋敷間木橋   ●木橋から見下ろす本丸西堀

 

●本丸・御前曲輪   ●印はクリックして拡大 

本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100m、東西約70m。周囲は土塁で囲まれている。北・西・南側は空堀が巡っており、木橋や土橋を通じて北の御前曲輪・西の蔵屋敷・南の二の丸に行けるようになっていた。御殿があったと思われる。

本丸 箕輪城跡

きれいな青色のツユクサ オオルリシジミか 本丸と御前曲輪を分かつ北堀

←本丸とは北堀で区切られた御前曲輪は本丸の詰めにあり、武田軍の猛攻で落城した際に、城主長野業盛以下が自刃した地。

→深さ20mの井戸が残っている。昭和2年に発見されたもので、底の土中からは長野市代々の当主の墓碑が多数出土した。

御前曲輪 井戸

 

●二の丸・郭馬出

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「二の丸は縦横各80mほどの郭で、本丸が持久防衛のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。
東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている」
二の丸   ツルボ
→先ほどの西虎口門をくぐるとここに出られたのだが、二の丸方面から土橋を渡って郭馬出にやってきた。
郭馬出:「郭馬出は50mX30mほどの郭で、周りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の西側から一挙に打って出るところである。このような大型の馬出を「郭馬出」という」つまり、防御だけでなく、突撃の準備場所としても使われていた。

●郭馬出 コスモス

 

●保渡田古墳群

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保渡田古墳群は、榛名山東南麓・井野川流域にある3基の前方後円墳の総称。当時の東日本において、きわめて優勢であった豪族たちの墓所として国史跡に指定されている。
最初に造られた二子山古墳は墳丘長108mの前方後円墳でまわりに内堀と外堀をめぐらしている。外堀まで含めた総長は213mあり、墓域の面積は約30,000m2と広大である。墳丘の頂上に設けられた埋葬施設は、大型の舟形石棺である。
二子山古墳の模型と実際の古墳 二子山古墳の前方から見たところ
→八幡塚古墳は二子山古墳の次に造られた古墳。当時、群馬県地域(上毛野)の豪族は国内でも有力な地域であった。被葬者は、このころ、上毛野各地に勢力を持った豪族たちのなかでも代表的な人物であったと考えられる。墳丘は全長96mで3段に造られ、斜面は葺石で飾られる。周囲には内堀・外堀・外周溝があり、墓域の長さは約190mに及ぶ。この古墳にはたくさんの埴輪が並べられていた。
豪族の棺-船形石棺の説明   ●八幡塚古墳と埴輪
埴輪群 八幡塚古墳の前方からみたところ 舟形石棺

 

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