2025年8月18日


今回は、福島のお城旅行の2つ目、二本松城。二本松城といえば、少年隊。だが、会津城の白虎隊は知っていたけれども、二本松城の少年隊のことは知らなかった。

正式に編成された会津藩の少年16、17歳からなる「白虎隊」とは違って、二本松藩の場合は新政府軍が二本松城下に切迫する直前に出陣を志願した少年たちが緊急に各部隊へ配属された。 兵力不足の実情と、年齢を2歳加算する入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)という制度により、 少年隊は12〜17歳から編成されることになり、数々の悲劇を生むことになった。 
登城口には、二本松少年隊のそばに母親の像があるが、これを見るととてもいたたまれない気持ちになる。

大壇口での戦いにおいて木村銃太郎隊長をはじめその多くが戦死し、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。

お城自体は、「二本松城」の名にふさわしく松の木が多く、箕輪門の前面には樹齢350年を超えるアカマツが連なっていて、箕輪門と附櫓(木造復元)や三の丸高石垣と良くマッチしている。お城に松の木は本当によく合うなと思った。

山上部の壮大な石垣も見ごたえがあった。また、安達太良山ビューポイントがいたるところにあり、単に二合田用水が安達太良山から引かれているというだけでなく、二本松の人たちにとって、心の拠りどころとなる山だったに違いない。



二本松城 - マップ   目次

「霞ヶ城」とも呼ばれる。三方が丘陵で囲まれた自然地形を巧みに利活用した要塞堅固な馬蹄形城郭(東に口を開けた馬の蹄のような形)。山麓部の居館や二の丸、三の丸と標高345mの「白旗が峰」山上部に築かれた城郭からなる梯郭式平山城
-二本松城は室町時代中期に畠山満康が築造し、以後畠山氏歴代の居城として140年余り続いた。中世から近世にかけて同じ場所で存続した東北では稀有な城跡。
-その後天正14年(1586)伊達政宗が畠山氏を滅ぼして二本松城は伊達の支城となる。
-豊臣時代になると二本松城は、会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城となる。二本松城には石垣が詰まれ、近世城郭として機能し始めた。
-徳川時代初期も会津領として、上杉氏、蒲生氏、加藤氏らの支配下にあった。特に加藤氏支配時代には本丸を拡張したことが確認された。
-二本松藩が誕生した寛永20年(1643)、初代藩主丹羽光重が10万700石で入城し、城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、幕末まで丹羽氏10代の居城として220有余年続き明治維新を迎えた。
-戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内、家中屋敷すべてを焼失し、二本松少年隊の悲話を残して慶応4年(1868)7月29日落城した。

 

●にほんまつ城報館
●箕輪門
●回遊式庭園
●見晴台〜搦手門
●本丸
●本丸から三の丸
●大壇口古戦場
●大隣寺

     

 

●にほんまつ城報館   ●印はクリックして拡大

→「にほんまつ城報館」は小峰城歴史館と同様、月曜日がお休みということで、19日の火曜日に再び訪れた。ここも評判どおりとてもよかった。

以下は城報館内の説明の一部:二本松藩伝統の剣法「突き」とそれに関するエピソード、二本松少年隊の話

にほんまつ城報館 城報館内
二本松藩は「突き」が丹羽光重公以来の二本松藩伝統の剣法:少年隊の成田才次郎(14歳)も父親から「斬らずに突け」と教わったという。「斬る」だけではなく「突き」という剣術が浸透していたからというのもあるが、「子どもでは斬っても力が及ばず、ダメージは与えられない。突いた時に刀が抜けずに斬りこまれるリスクはあるが、確実に致命傷を与えるべく、突け」と教え諭され出陣した。 ←『忠臣蔵』のきっかけとなった「松の廊下事件」にかかわるエピソード:1701(元禄14)年3月、江戸城内松の廊下で刃傷沙汰に及んだ赤穂藩主・浅野内匠頭長矩と親戚関係にあった丹羽光重は、未遂に終わったことを聞いて枕もとのキセルを手にし「なぜ切りつけたのか、なぜ突かなかったのか。突けば思いを遂げることができたものを」と、無念と口惜しさから灰入れを思い切り叩いたということで灰入れの上端部に凹み傷がある。
  凹みがある灰入れ  
←最初の木村銃太郎門下生である岡山篤次郎十三歳は、母に頼んで戎衣(戦場での着物)をはじめ、手ぬぐいにいたるまで「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と書いてもらい出陣した。「母が屍を探すときにわかりやすいように。字が下手だと敵に笑われる。」との理由からだと伝えられている。
岡山篤次郎   マンホール

 

●箕輪門周辺と箕輪門   ●印はクリックして拡大
加藤氏が建造した三の丸高石垣(9.9〜13m)。右側に箕輪門。→
  箕輪門西側の高石垣 箕輪門東側の高石垣
←搭乗口手前に水路があるが、丹羽氏が城内・城下の防備を目的としてひいた二合田用水を、郭内(侍屋敷)に引くために配置したもの。
用水路   ●登城口
→入口手前右側に二本松少年隊群像がある。戊辰戦争二本松最大の激戦地・大壇口戦場において 大義のため戦う隊長及び少年隊士と、わが子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋、直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したもの。

  ●二本松少年隊群像 Xは丹羽家の家紋
←↑幟の最上部にある印はバッテンではなく、丹羽筋違(にわすじかい)という丹羽家の家紋。瓦も丹羽家の家紋。
箕輪門 瓦の家紋  
↑箕輪門は初代藩主丹羽光重が建築した櫓門。カシの木を箕輪村から切り出してきたのでこの名前がついた。多聞櫓と二層櫓からなっている。どちらも復元。


箕輪門 正面の石垣

←入口の階段から箕輪門まで、そして枡形では、その石垣の上にずっと赤松が植えられている。赤松は二本松城のシンボルとなっている。石段を上って三の丸へ。
門の向こうは枡形 枡形を抜けて階段を上って三の丸へ  

 

●回遊式庭園〜見晴台   ●印はクリックして拡大 
「二本松藩主初代丹羽光重から5代高寛にかけて整備された回遊式庭園。庭園内には二合田用水から引水した洗心滝やるり池が配され、イロハカエデの古木もみられる。現存する「洗心亭」は当時「墨絵の御茶屋」と呼ばれた茶室であった」
●霞池、丸印は洗心亭 左写真の丸印が洗心亭(藤棚)
洗心亭は二本松城で唯一残る江戸時代の建築物。天保8年(1837)に移築されて藩主の釣茶屋として利用されていたが、明治40年(1907)に現在地に戻されたため、戊辰戦争での焼失を逃れた。
七つ滝   現存の洗心亭(洗心亭から見下ろす)

←左側の階段を進む。右のウッドチップ歩道を行くと、三の丸の方に戻ることになるので、左手の階段を上る。
●るり池 左側の階段を進む

→別称「八千代の松」とも言われる赤松の巨木で、樹齢350年を越す。1本の幹から三方に枝を伸ばした独特の形状は見事。

隣に濃いピンクのサルスベリの花が最低亭、緑の松がより一層映える。

  ●笠マツ 笠マツとサルスベリの花
←笠マツの西側にあるのが、イロハカエデの木。このイロハカエデは樹齢350年から400年であるが樹勢は旺盛である。二本松城においては、寛永年間から明和年間にかけて「るり池」周辺の回遊式庭園をはじめとする庭園の整備が行われており、そのとき植えられたと思われる楓の古木が多く、これはその代表的なもの。
イロハカエデ   洗心滝
見晴台に出る 見晴台からの眺望:中央が安達太良山

 

●見晴台〜搦手門   ●印はクリックして拡大 


→見晴台からの眺望を楽しんだら少し元の道を戻って左側の狭い階段を上がる。

←脇には用水があり水が勢いよく流れている。
二合田用水 階段を上がる

↑二合田用水:「二本松藩主初代丹羽光重の命により城内及び城下の防備のために敷設された用水堀。城の西方、安達太良山中腹を水源とし、約18kmにわたり水を引いたもので、城下町へも分水した。藩士山岡権右衛門の発案、算学者磯村吉徳の設計 による。夜間にろうそくの明かりで測量したとの言い伝えが残る」

←明治から昭和にかけての詩人、彫刻家として有名な高村幸太郎が亡き妻・智恵子(二本松市出身)の生涯を回想した詩集「智恵子抄」。当詩碑はその中の「樹下の二人」の冒頭の句。
  智恵子抄詩碑  

←この「少年隊の丘」は戊辰戦争直前まで少年たちが砲術の稽古を行った場所といわれている。入口にあったのと同じレリーフもある。

搦手門は、門台石垣と門柱を立てた左右の礎石が残る↓


少年隊の丘   入口にあったのと同じレリーフ
搦手門跡(礎石が残る) 搦手門からも安達太良山が見える

 

●本丸

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本丸周辺の石垣は加藤氏時代の箕輪門周辺と同じ布積み崩しの石垣が復元された。

天守台はあるが、天守は実際築かれなかったようだ。

●本丸マップ

南西側の石垣

↑この石街の内部には、別の石垣が保存されている。
旧石垣:会津領主・蒲生氏郷が二本松城に始めて築いた慶長初年の石垣で、穴太積み。←天守台北側石垣などと同じ。
現在の石垣:後の会津領主・加藤氏が修築、拡張した寛永初年の石垣。
西側石垣 天守台北側の石垣
●東櫓台の鈍角のシノギ角部 枡形虎口(鏡石) 枡形(東櫓台の石垣)

東櫓台から西方向

天守台の石垣(拡大)

●天守台の上から安達太良山方向
←天守台の横の階段をおりたところに自刃の碑がある。「慶応4年(1868)7月29日、戊辰戦争で二本松城が落城するときに、「切腹」した2名の藩士、丹羽和左衛門(66歳 城代)と阿部井又之丞(65歳 勘定奉行)の供養碑。
和左衛門の「切腹」の様子は床几(イス)に腰をおろし、「軍扇」を膝の上に広げ割腹し、その後内臓を自分で「軍扇」の上につかみ出し、前かがみになって絶命した、と伝えられている」
供養碑 西櫓台から見たところ(西櫓台)

 

●本丸から三の丸へ戻る   ●印はクリックして拡大 
←「二本松城に築かれた、最も古い石垣のひとつ。築石は野面石と荒割石が用いられ、その積み方は「穴太積み」。大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、数石しか「横目地」の通らない、いわゆる「布積み崩し」の積み方。二本松城が会津領の支城となった慶長初期頃、蒲生氏郷に抱えられた城郭石積み技術者集団「穴太衆」によって築かれた石垣」
実際、草が生えていてはっきりわからなかった。
本丸下南面石垣 日影の井戸

→「慶応4年(1868)戊辰戦争において、薩摩・長州・土佐藩兵を主力として西軍約7千名に対して、応援兵を合わせても兵力約千名の二本松藩は各所で戦いを繰り広げ、7月29日ついて城下・城内の戦いとなり正午頃二本松城は炎上し、落城した。
二本松藩の戦死者337名、負傷者71名、他藩の戦死者200名以上という戊辰戦争の中でも壮絶な戦いだった。 ここでは、主戦論者であった3名が責任をとり、自刃し、壮絶な最後を遂げた」

↑「千葉県印西市の『月影の井戸』。神奈川県鎌倉市の『星影の井戸』とともに「日本の三井」と称される。昭和の初期頃までは『底なし井戸』と呼ばれ、また古老の伝えでは『ひのえ』、『蔭の井』と呼ばれていた。石積みで、深さ約16m、底から北方に岩盤をえぐって約14m横堀されている。今でも豊富な湧き水を溜めている」
二本松藩士自刃の地

→奥州道中に面する久保丁口に堀をともなった大手門があった。
9代藩主丹羽長富の治世に至り、代々藩主の悲願であった大手門が完成したが、わずか30数年後の慶応4年(1868)7月29日戊辰戦争の兵火により焼失した。「亀甲積み崩し」技法による石垣。

二合田用水   大手門の石垣「亀甲積み崩し」

 

●大壇口古戦場   ●印はクリックして拡大 

戊辰戦争に木村銃太郎を隊長とする二本松少年隊奮戦の地。隊長はここで戦死、また少年隊を援護して葬列名戦死を遂げた青山助之丞・山岡栄治の二勇士の奮闘の地でもある。

ここを右へ 大壇口古戦場
  クズの花 ●安達太良山

 

●大隣寺   ●印はクリックして拡大 

丹羽家代々の菩提寺であり、また、戊辰の役で戦死した二本松少年隊の供養塔がある。

ここを右へ  

 

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