2024年5月20日

阿蘇熊本空港に降りて、雨の日は必ず霧が出るとレンタカーの方に言われていたとおり視界1mぐらいしかない道を越えて、大分県竹田市に入った。台風の影響もそろそろ終わりかけていたが、この日いっぱいはどんより曇りの天気。

竹田市に着いたときにはすでに16時ごろになっていたが、滝廉太郎のあの「荒城の月」が、少年時代に遊び場にしていた岡城をモチーフにしているということで岡城には短時間でも寄ってみたかった。

実際歩いてみると、滝廉太郎以外にも、その断崖絶壁と、美しい石垣に魅了された。どちらも阿蘇山噴火により流れ出した火砕流でできた阿蘇溶結凝灰岩の影響を受けているようだ。

岡城の周囲は、阿蘇溶結凝灰岩の大地が河川によって削られ断崖絶壁となっており、本丸の手前の道から見える絶壁の上に立つ石垣群や、西の丸の方から谷を挟んで絶壁の上に立つ二の丸・三の丸の石垣群は圧巻だった。

石垣自体も、加工しやすい阿蘇溶結凝灰岩をきれいにカットして(中には六角形に加工したものもある)ピタッとはまる隙間のない切込接ぎ、また石を斜めに落とし込んで積み上げていく谷積みの石垣が多く見られた。曲輪、門跡、櫓台などすべて石垣で構成されていて非常に美しく見ごたえがあった。

時間の都合上、すべてを見て回ることはできなかったが、石垣の観察が非常に楽しいお城だった。




岡城 - マップ   目次

天正14年(1586)、志賀親次の守る岡城に、薩摩の島津氏の大群が攻め入ってきたが、険峻な要害である岡城を落とすことができず、撤退した。当時は土塁や空堀など土で造られた山城だった。

文禄3年(1594)に岡城主となった中川秀成が、島津氏撃退でも証明された要害堅固な地形を土台とし、「土の城」から「総石垣造りの石の城」へ大改修を行い、断崖絶壁上を石垣で取り囲み、その上に堀や櫓などの建物が建ち並ぶ大城郭となった。明治4年(1871)の廃藩置県により城を去るまでの277年間、岡城は中川氏の居城だった。

明治に廃城となり、城内の建物は取り壊されたため、現在は石垣のみが残る。標高325m。

 

●総役所跡など
●岡城大手門へ

●絶壁の上に立つ岡城
●三の丸跡

●二の丸跡・本丸跡

●西の丸


     

 

●総役所跡など   ●印はクリックして拡大

「岡城を形成する断崖絶壁は、阿蘇山の噴火により流れ出した火砕流でできた阿蘇溶結凝灰岩の岩盤。阿蘇溶結凝灰岩で形成された大地を、長い年月をかけて河川が削り、深い谷と断崖絶壁による要害堅固な岡城の地形が生み出された」(パンフレット)
←現在の駐車場や受付の場所は、行政機関、裁判所の機能を持っていた曲輪、総役所跡を上から見下ろすと→

●総役所跡 総役所跡を西の丸から見下ろしたところ

鏡石 ●絶壁 ペンション(と秘宝館)

 

岡城大手門へ   ●印はクリックして拡大

大手門までの石段の脇には石垣があり、アーチ状の石が載っている。石段に沿ってくねりながら、途中で分離して大手門まで続いている。通称「かまぼこ石」といわれるが、他の城には見られない岡城の特徴の一つだそうだ。↓

岡城址の石柱   ホタルブクロ
●アーチ形状の石垣「かまぼこ石」 途中でかまぼこがここで分かれている くねるたびにかまぼこ石垣
大手門左側の櫓台の石垣 大手門跡 大手門右側の石垣には鏡石がある
↑大手門跡。「大手門復元写真」のように、石垣上には櫓が渡されていた。
大手門左側の石垣はヨーロッパの古城のような形に見える。また、石垣の石が斜めに並んでいて面白い。谷積み(石を斜めに落とし込んで積み上げられた石垣)か。右側の石垣にはちょうど真ん中に鏡石がある。
←礎石や車敷が残っている。
内側から見た礎石と車敷 説明書きにある「大手門復元写真」

 

●絶壁の上に立つ岡城   ●印はクリックして拡大 


←この広い曲輪は家老の中川但見屋敷跡。西の丸周辺に存在する三つの家老屋敷の一つ。

→絶壁上に築かれた三の丸北側から二の丸にかけて続く石垣。

中川但見屋敷跡   ●三の丸の石垣が見える
岡城は、30km離れた阿蘇山が9万年前に噴火したときの火砕流でできた海抜325mの岩石の上に立っている。周囲は断崖絶壁。

←南側の崖越しに本丸方向を見ると、断崖絶壁の上に石垣群が見える。
●南側の崖越しに本丸方向→ →●石垣群のズーム  
北側の清水谷

 

●三の丸跡(太鼓櫓門跡・鐘櫓跡   ●印はクリックして拡大 


←太鼓櫓門跡。岡城の中心部への入口で最も重要な門。

三の丸は西側に「太鼓櫓門」、東側に「御門櫓」の二カ所に入口があったが、これはその西口の太鼓櫓門跡。
中に入ると桝形虎口が形成されている。三の丸への通用口と藩主専用の御成門の石段が2箇所ある。→


●太鼓櫓跡 ●太鼓櫓門内桝形虎口の鏡石
阿蘇溶結凝灰岩は加工しやすいため、石垣は、「きれいにカットしてピタッとはまる隙間のない切込接ぎ。また、六角形の石垣が見られるが、これによって中央にかかる力が分散され、より強固になっている。」
また、ネットを見ると、「六角形の石を中心に花びらのようにまとめているのは石工さんの遊び心ではないか」と言うガイドさんもいるようだ。そう言われてみればそのようにも見える。→
↑太鼓櫓門内桝形虎口に鏡石があるが、周囲の石は、その巨石に合わせて切込接ぎでぴったりと隙間なく積まれている。
六角形に加工された石  

 

●二の丸跡・本丸跡

  ●印はクリックして拡大
二の丸跡 ●谷積みの石垣 完璧な算木積み

滝廉太郎は、少年時代に遊び場にしていた岡城をモチーフにして、名曲「荒城の月」を作曲した。↓

休憩所の中にはピアノがあり、楽譜はもちろん「荒城の月」.。

空井戸跡 二の丸休憩所  

滝廉太郎と同じ学校に通っていた彫刻家の朝倉文夫によって昭和25年に造られた滝廉太郎の銅像。→
「学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君...」と少年時代を思い出しながら、この銅像を制作したというエピソードが残されている。

休憩所の中 滝廉太郎像(横から)
二の丸跡から谷を見下ろす
←休憩所の隣の本丸側の石垣は、完全に加工されておらず石と石の間に隙間があるので他の切込接ぎ石垣と異なり打込接ぎの乱積みか。石を斜めに落とし今度積み上げた谷積みにも見える。
●この向こうが本丸   本丸跡
神社 ●本丸から三の丸を見下ろす ●本丸から歩いてきた道を見下ろす

 

●西の丸   ●印はクリックして拡大 
時間的にまだ大丈夫そうだったので、ショートカットで西の丸まで行ってみた。三代藩主中川久清の隠居後の住まいとして西の丸御殿が造営され、その後、政務の中心的な機能も西の丸へ集約されたそうだ。西の丸は城内で最も広い曲輪。
西の丸跡   ●西の丸絶景ビュースポット
中川民部屋敷跡から谷越しに三の丸・二の丸が見えるが、石垣が屏風のようにジグザグしている。「これにより2方向から矢を放つことができるため、敵を撃退するのに役立っていた(「横矢掛り」)」↓
中川民部屋敷跡 中川民部屋敷跡から見ると↓
中川民部屋敷跡から見える三の丸・二の丸石垣のズーム

●曲線の石垣 西の丸東御門跡 ●西の丸の端

←左側の石垣は算木積みはきっちり隙間なく詰まれているがそれ以外は打込接ぎで石を斜めに落とし込んで積み上げられている谷積みのように見える。

右側の石垣は切込接ぎで、これまた六角形や五角形などの石があり周囲に隙間なくぴったり積まれている。→

●石垣   五角形や六角形の石

 

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