2025年3月24日

岡山に着いたときは、桜の開花が始まるかどうかのころで、その後ぽかぽか天気が続いても開花はなかなか進まず、まだまだ梅が頑張っていた。さらに今年も黄砂で視界がかなり悪かった。

桜とお城のコラボ予想は今年も大ハズレだったが、岡山には、岡山城、鬼ノ城、備中松山城、備中高松城、津山城と歴史のある城が目白押しだった。

まずは烏城の別名を持つ岡山城。第一印象は、黒いお城で横長の壁に白い格子窓がずらっと並んでいる天守だったが、さらに形が不等辺五角形という大きな特徴があった。

北側の石垣の西寄りには鈍角の折れがあり、その上の天守台平面もそれに合わせて不等辺五角形。その上にはその折れを隠すかのように唐破風がちょこんと載っている。

宇喜多が築き、小早川が拡げ、池田家が繁栄させたお城と言われているが、姫路城主の池田輝政は家康の娘・督姫を正室にしていたため豊臣秀頼との連絡を断って、徳川系大名として姫路城を「白い」お城(白鷺城)に改修したのに対して、輝政の三男・忠雄が治める岡山城は正反対の「黒い」お城(烏城)だったということで、親子で対照的なところがおもしろい。でも親子揃って築城名人と評価されているから素晴らしい。



岡山城 - マップ   目次

復元天守:二重二階建ての入母屋造りの屋根を基部として、その上にもう一つ入母屋造を載せ、さらにその上に望楼部を載せた三段重ねの五重にしている、五重六階の望楼型天守。 高さ約15mの石垣の上に高さ約20.45mの建物が載っている。この天守は豊臣期大阪城を見本としており、入母屋破風の方向と数が一致している。黒漆黒の下見板張りと金箔の瓦葺で「黒と金」の豊臣系天守の代表格。 天守に塩蔵と呼ばれる櫓が付随している複合式天守。縄張りは梯郭式で、本丸は三段造り。

下剋上で大名化した宇喜多直家が石山と呼ばれた小丘陵に小規模な城館を構えたのが、岡山城の城郭としての起こり。父宇喜多直家が金光氏から奪った城をその子秀家が1597年に引き継いだ城。秀家は後見人の秀吉にかわいがられ、秀吉の幼女豪姫を娶り、豊臣家の一員に。豊臣政権下で約57万石を拝領し、城郭を巨大なものにした。 関ケ原合戦に敗れた宇喜多秀家のあとに入城したのが、小早川秀秋(入城後2年後に酒の飲みすぎで病死)や池田氏(池田輝政の三男・忠雄など)が代々統治していき、拡張整備が続けられ、近代城郭へとさらなる発展を遂げ、現在の姿になった。

天守は明治維新後も残る貴重な存在。戦災で消失したが、詳細な図面があったため、昭和41年に、往時の姿を忍ばせる天守が再建された。

 

●岡山城 - 不等辺五角形
●中の段へ

●月見櫓 - 2つの顔を持つ
●本段へ
●石垣
●後楽園など

     

 

●岡山城 - 不等辺五角形   ●印はクリックして拡大

黒いお城で有名な岡山城だが、天守台や一階部分が不等辺五角形になっていることも大きな特徴。
北側から見ると天守台の石垣や一階が鈍角で折れ曲がっていることがわかる。その折れの上には唐破風が設けられている。
「一重目の向唐破風は、二階平面をより長方形に近づけるため修正した際に、一重目屋根が中央部に向かってせりあがったため、その部分を隠す目的で置かれた」

●北側には不等辺五角形の折れ 真北から見た折れ部分の上に唐破風
本段南側から見ると、こちらは左右対称の平面で、このお城が不等辺五角形になっていることはわからない。格子窓が多い。→
西側の附け櫓は塩櫓。

↓宇喜多秀家、小早川秀秋、池田氏が代々統治していき、拡張整備が続けられ、近代城郭へとさらなる発展をとげ、現在の姿になったことを表す不等辺五角形のロゴ。
●岡山城北側 ●本段から見た岡山城南側


西側から:手前は月見櫓 天守台の不等辺五角形を表すロゴ ●旭川と岡山城

 

中の段へ   ●印はクリックして拡大

中の段の表書院と本段御殿を結ぶ渡り廊下(お殿様専用の廊下)である廊下門をくぐって階段を上ると中の段に出る。

中の段は、表書院(藩の政治の場や藩主公邸)の建物があったところ。

廊下門 中の段
表書院であった中の段の地面には、料理所など部屋の名前が地面に描かれていてわかりやすい。
料理所があった場所 井戸
中の段の地中に埋もれていた石垣!
江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで「中の段」を北に大きく広げた。平成5年度の発掘調査で地中に埋もれた石垣が見つかった。
→中の段のピンク色のラインは、石垣が拡張される前の宇喜多秀家が築いた石垣で、丸印は、以下2箇所の露出展示石垣が見られる箇所。
中の段の階段を下りていくと↓  
宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣。
←角がとがった珍しい石垣。
→石は主に花崗岩で、加工をほどこさない自然石を横向きに積んでいる。南側に石がないのは、城を改造する時に石を抜かれたからだそうだ。ここから、金箔を押した桐の文様(秀家は豊臣秀頼の家紋を与えられた)の瓦が出土した。
埋没石垣   中の段西辺石垣

 

●月見櫓 - 2つの顔を持つ   ●印はクリックして拡大 

月見櫓は、池田忠雄が1600年代に建てた白漆喰壁の二重二階・一部地階の隅櫓。
「城外側の北や西側は鉄板を張った格子窓に石落としがある。石垣にも鉄砲を撃つ銃眼があって、軍事色の強い造り。
城内側の南と東面は最上階に回り縁があり、名前のとおり月見の宴が催されるかのような造り。また、地階に腰屋根を付けているために三重に見える」

●月見櫓北側 中の段から見た月見櫓南側

←←鬼瓦も池田氏の揚羽の家紋になっている。姫路城の瓦も同様で、天守のまわりを多くの揚羽が飛んでいたのを思い出す。

←塀と石垣の境目に石狭間が開けられている。他には徳川大阪城と江戸城平川門にしか見られない珍しいもの。

池田家揚羽蝶の家紋 珍しい石狭間(外側から見たところ)
→西の丸は慶長8年(1603)に岡山藩主となった池田忠雄が幼少であったため、代わりに岡山城に入った池田利隆によって整備された曲輪で、櫓もそのころに建てられたものとみられる。

西の丸西端を守る二重櫓。旧内山下小学校の校庭の西隅にある。
見落としがちだが、探していると、街中のビルとビルの間に突然この櫓が現れた。

現存している櫓・門は月見櫓と西の丸西手櫓の2基しかないが、往時には、三重櫓7基、二重櫓24基、平櫓2基、多聞櫓18基、櫓門13基を誇ったという。櫓の多さでは全国でも最多数。

  西の丸西手櫓  

 

●本段へ   ●印はクリックして拡大 


←本段(御殿があった)に上がる入口として防備を固めた大型の門。藩主の移動は天守近くにあった渡り廊下で行われたため、この門は閉ざされ、不明門(あかずのもん)の名がある。

↓屋根には計8つの金の鯱や金箔押の桐門瓦などが掲げられている。また邪気を払う桃瓦も内部から見ることができた。

不明門 天守閣のある本段

天守の礎石 金箔押の桐紋瓦 金箔を施した瓦
天守内部見学中、雨が降ってきた。岡山市出身の歴史学者・磯田先生による監修でリニューアルされた展示を見学・体験しているうちに雨はあがった。
天守内部 華頭窓から雨の外を見る
→天守台そのままの形状をなしている天守一階の鈍角の折れの部分の説明。



  不等辺五角形の平面の説明版 天守内部一階の五角形の折れの箇所
邪気を払う金箔の桃瓦 金の鯱が8つも 家紋のロッカー(自販機)

 

●石垣

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天守台は、宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた高さ14.9mの高石垣。隅角部は鈍角で折れ曲がるため、鎬積(しのぎづみ)となっており、直方体傾向の石材を左右に振り分ける算木積みに近い手法を導入している。
野面積。

天守台北側折れ部分の石垣   ●本段北東部の石垣
→六十一雁木門は直接本段へ上る石段の下の虎口で、池田氏が下の段をおおがかりに整備したときに築かれた石塁。板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的。階段を雁木といい、元の石段数が61段だったことが門の名の由来といわれている。

六十一雁木門跡の石垣 六十一雁木門跡

←宇喜多秀家が築いた緩やかなカーブを描く石垣の隅に、小早川秀秋が石垣を継ぎ足して改修した後が観察できる。秀家は安定性の高い大型の石材をきっちり積んでいる(左側)のに対し、秀秋は丸みの強い石材をおおまかに積んでいる。
→「不明門の右側の石垣は、宇喜多期の石垣に小早川期か池田利隆の時に被せて造られていることが判明している。また、上部は不明門を建てたときに積み田され、中位の一部は天保9年(1838)に崩落して修理を受けている」


●本段東側高石垣 ●不明門下の石垣
北側↓ 西側中の段の石垣↓ 南側↓
↓「小早川秀秋が築き、次の池田忠継の時に改修された石垣。あまり加工していない石材を緩い角度に積むのが特徴で、高さは11mある。右側には大納戸櫓の石垣が接し、左には1620年代に池田忠雄が築いた切石積みの石垣が接している」

●西側北の伊部櫓台の高石垣   ●西側南の大納戸櫓台の石垣
↑伊部櫓台の高石垣
中段の北から西側の石垣は最も新しく、池田忠雄期の石垣。切込接で隅は算木積。「隅角部の角石は精加工による規格石材で、角脇石もある程度、役割に特化した専用石材が用いられている」
↑「関ケ原合戦後に小早川秀秋が築き、池田家が大幅に回収したとみられる石垣。加工をあまり施さない自然石を用いているが、上にいくほど傾斜が強くなるのが特徴。算木積みは未発達。上に建っていた大納戸櫓は、4階建てで天守に次ぐ大きさを誇った」
  ●中の段南西部石垣  
←月見櫓下の石垣に「〇に−」の刻印などが見られる。
→南東側では、石垣の一部が飛び出て外に膨らんでいる箇所が数か所あった。これに関する説明は見当たらなかったが、いわゆる、「孕み(はらみ)」(石垣の経年劣化の一種で、内側からの圧力で石垣が外側に膨らんでしまう現象)という現象なのだろうか。
刻印(石樋)   「孕み」現象(?)
←「池田忠雄による石垣。隅角には規格石材が用いられて、大きさ・形の揃えられた角脇石が1石ないし2石置かれている。築石部もほぼ規格石材が用いられている。切込接だが、横目地は揃わない」
●月見櫓台の石垣 岡山城の城主?

 

後楽園など   ●印はクリックして拡大

←池田綱政は大名庭園の傑作、後楽園を築いたが、天守を借景とする庭園は全国でも非常にめずらしいとのこと。

→池田綱政が元禄10年に池田家と領民の繁栄を願って建立し、観音像を祀っていた慈眼堂の境内には花崗岩を36個に割って運び、もとの姿に組み上げた烏帽子岩がある。

●後楽園と岡山城 ●慈眼堂の烏帽子岩
●沢の池に浮かぶ島々 岡山城ライトアップ ばら寿司(しゃこ)
桃太郎の銅像 岡山市の桃太郎マンホール うらじゃ

 

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