2025年2月27日/28日

諏訪原城といえば、大きな丸馬出が残っている城として有名。丸馬出とは、防衛力を強化するために虎口の外側に備えられた三日月堀と曲輪がセットになったもので、馬出といえば武田流築城術の特徴だ。今まで訪れたお城の中にも馬出が残っている城はあったけれども、はっきりとした形がわかりにくい場合が多かったのでぜひ、諏訪原城の馬出を見てみたかった。

実際、諏訪原城の丸馬出ははっきりとしていてわかりやすかった。特に二の曲輪中馬出は壮大で美しく、諏訪原城のシンボル的な存在。このすぐ北側には小さな馬出(二の曲輪北馬出)があり、中馬出とは土塁で接続する「重ね馬出」となっている。そしてその向こうには富士山が見られるのだから最高だ。
さらに城の南端には、大きさの異なる馬出が続けて3基もある。

そして木が生い茂っていてわかりにくいのだが、大手にも二の曲輪大手馬出がある。さらに、こちらは行っていないが、地図を見ると少し離れた場所に大手外馬出もあるようだ。なんと合計7基もの丸馬出が備えられている!まるで丸馬出のデパートのようだ。ただ、現在見える堀や曲輪は、武田氏のものがそのまま残っているというより、徳川氏によって改修された可能性が大きいらしい。

時間があまりないなか、横須賀城(掛川市)にもさっと立ち寄ることができた。諏訪原城(島田市)は武田勝頼にとって高天神城攻略のための城だったのに対し、横須賀城は徳川家康にとって高天神城奪還のための城だった。横須賀城は、天竜川から運んできた河原石を用いて積んだという珍しい「玉石積み」の石垣が特徴で、全国的にも珍しいそうだ。戦いのためのお城とは思えない美しさだった。



諏訪原城 - マップ(番号はマップ内の番号)   目次

諏訪原城跡は、戦国時代の東海道における戦略上の要地に位置し、初め武田信玄が砦を築き、その後天正元(1573)年、遠江侵攻の拠点・徳川氏に対する備えとして、信玄の子 武田勝頼が家臣 馬場美濃守信房(ばばみののかみのぶふさ)に命じて、牧之原台地に築いた山城。
武田家の守護神諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いた。高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担った。
天正3(1575)年に徳川家康によって攻め落とされた後、「牧野城(まきのじょう)」と改名され、今川氏真や松平家忠らが城主となった。
やがて天正9(1581)年に高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡すると、この城の必要性はなくなり、天正18(1590)年頃廃城となったと言われている。

 

●諏訪原城 - ビジターセンター
●大手曲輪

●二の曲輪
●本曲輪
●横須賀城
●富士山

     

 

諏訪原城 - ビジターセンター   ●印はクリックして拡大

よくお城の番組に登場する、静岡出身の大の城好き、春風亭昇太さんは諏訪原城を全国にPRするための部隊の隊長をやられているので、実物大写真が置かれている。→

諏訪原城ビジターセンター   諏訪原城応援隊隊長の春風亭昇太

←島田工業高等学校の生徒たちが作成した、丸馬出における徳川と武田の争いを再現したジオラマ模型。もともとは武田家のお城なので、お城を守る武田家に徳川家が攻めているはずなのだが、これは逆。

この中には、バットを持って構えている大谷翔平や、バスケットボールを持っている人もいる、とビジターセンターの方が教えてくれた。→

ジオラマ模型   ちょっと変わった兵士たち

 

●大手曲輪   ●印はクリックして拡大 

←入口入ってすぐのところにA大手南外堀があるが、現在その大半は茶園となり、その全容を見ることはできない。→

武田家の諏訪原城が徳川家康によって攻め落とされた後、「牧野城(まきのじょう)」と改名され、今川氏真や松平家忠らが城主となった(左写真マウスオーバー)。

A大手南外堀 ●茶畑と遠くの山に「茶」の字
A大手南外堀の橘川にB大手曲輪。大手曲輪のさらに北側にはC大手北外堀がある。
B大手曲輪   C大手北外堀

 

●二の曲輪

  ●印はクリックして拡大
さらに北に歩いて行くと、大きな三日月堀。これが、このお城内で一番大きくはっきり残っている馬出、E二の曲輪中馬出。武田流築城術の特徴と言われている丸馬出。
「諏訪原城の馬出は、広大な台地上からの敵方の攻撃を想定し、台地側にのみ7か所構えられ、すべて半円形で、前面に三日月堀を持つ「丸馬出」」
●E二の曲輪中馬出 E二の曲輪中馬出の北から南方向

→そのすぐ北側、つまり台地の最北端には、小さい馬出、H二ノ丸北馬出がある。「これら南北に配置された長さ50mにも及ぶ巨大な2基の馬出(中馬出と北馬出)は土塁で接続する「重ね馬出」で、防衛ラインの拠点であった」


  H二の曲輪北馬出 EとHの重ね馬出の使われ方のイラスト

その横に、二の曲輪北馬出の門(藥医門)がある(徳川氏時代の城門を復元したもの)。そしてそのずっと向こうの北方向には富士山も。
←藥医門を額縁にして富士山を写すことにも成功。ただし、今日の富士山はこんなに青空なのに、少しうっすら富士山(クリックすると拡大富士山が見られます)。

●★二の曲輪北馬出の門の中に富士山   ●二の曲輪北馬出の門と富士山

G外堀を渡ってI二の曲輪へ。→
二の曲輪は、南北315m、東西約75mの広さを誇る城内最大規模の曲輪。二の曲輪を南北に仕切る、仕切土塁も見られる(右写真マウスオーバー)。

G外堀   I二の曲輪(仕切土塁)
歩いていると玉石がよく見つかるが、ここ牧之原台地は「かつての河原が隆起した土地で、大井川が運んだ大小の礫を多量に含んだ礫層から成っている」からだそうだ。
玉石 玉石 土塁を南へ
二の曲輪と外堀の間の土塁を入口方面(南方向)に歩いて行くと、外堀の最南端にQ二の曲輪東内馬出、S二の曲輪南馬出、R二の曲輪東馬出、の馬出三連発。

玉石 Q二の曲輪東内馬出 S二の曲輪南馬出
R二の曲輪東馬出 R二の曲輪東馬出の東方向 ●二の曲輪東馬出の東側から富士山

O諏訪神社のあるところがP二の曲輪大手馬出。この馬出の堀は、入口に入ってすぐ東側にあった堀だが、木々に覆われていて見にくい。→

O諏訪神社(鳥居)   P二の曲輪大手馬出

 

●本曲輪   ●印はクリックして拡大 

二の曲輪から内堀を渡って現れたのはK本曲輪。本曲輪の東側は絶壁になっていて、「後ろ堅固の城」と言われている。
眼下には島田市市街と大井川が見える。そしてその向こうには富士山が!→

K本曲輪

●島田市と大井川と富士山↓

本曲輪は内堀で囲まれている。本曲輪をぐるりと廻ってJ内堀に下りていくとLカンカン井戸。さらに下りていくとM水の手曲輪。水が少し溜まっていたが、これは湧き出したものだろうか。

J内堀   富士山ズーム

南アルプスが見える

Lカンカン井戸(周囲は玉石) M水の手曲輪

 

●横須賀城   ●印はクリックして拡大 


家康が高天神城奪還のための拠点として天正8年(1580)年家臣の大須賀康高に命じて築かせた。
天正9年(1581)に高天神城が廃城となると、その後は横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられた。以後、明治維新で廃城となるまでの288年間20代の城主を数える。

横須賀城(別称松尾城)は、平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を備え、中世城郭と近世城郭の2つ(東大手門と西大手門)を併せ持っている。
また、普通1つしかない大手門が、この横須賀城には東西にあり(図の赤枠箇所)「両頭の城」といわれたほか、「玉石積み」とよばれる天竜川の丸い河原石を用いた石垣も、全国的に珍しい。

  ●横須賀城図  
横須賀城

←「横須賀城の天守は建坪40坪余り、4層の建物と記録されている」

石垣の角石もここでは玉石の算木積みになっていておもしろい。角のある通常の石と比べて強度はどうなのだろうか。↓
玉石の石垣は美しさの方が強調されてしまって戦いのお城だということを忘れてしまいそうだ。

天守台跡   ●玉石の石垣
●玉石の石垣 玉石の算木積み(?) 圧倒される玉石の石垣

 

富士山(富士川SA)   ●印はクリックして拡大

富士川SA下りからの富士山

諏訪原城からの富士山は少し霞んでいたが、当日早朝、下りの富士川SAからは、快晴の中、大きなくっきり富士山が見られた。

スタバと富士山 ●富士川SAからの富士山

 

 

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