2025年2月28日

高天神城は、水運の要衝の地だったため、武田、徳川の両氏にとって、遠江の覇権をめぐっては、どうしても手に入れなければならない重要な城であり、武田・徳川氏の決戦の舞台となった。

実際、天正2年(1574)には武田勝頼が高天神城を攻略し、その後、天正9年(1581)には徳川家康が高天神城を奪還した。

高天神城を訪れる前に訪れた諏訪原城と横須賀城は、それぞれ勝頼と家康が攻略のための兵站拠点となって活躍したお城たち。

高天神城を歩いてみると、東峰と西峰の違いがよくわかる。
東峰は比較的広い曲輪が階段状に並んでいて、曲輪間の堀切や横堀などは見られない。東峰は急崖と深い谷に囲まれていて、天然の要害となっていることや、主に居住空間として使用されていたからのようだ。

それに対して西峰は狭くて長い尾根上の曲輪に堀切・横堀・土塁などの防御施設が連続して施されている。西峰はもともと斜面が緩やかであったため、武田勝頼が大改修を行い、このような戦闘空間ができあがったとのこと。



高天神城 - マップ   目次

高天神城は、掛川市の中央に位置する小笠山から南東に張り出した、標高132mの鶴翁山に築かれた山城。

いつ、だれが築城したのかはよくわかっていない。戦国時代には、遠江の覇権をかけて甲斐の武田氏と三河の徳川氏による激しい争奪戦が繰り広げられ、「高天神を制する者は遠江を制す」とうたわれた。徳川氏のお城になる前は、今川氏のお城だった。

高天神城の構造は、中央に位置する井戸曲輪を挟んで東峰(本丸、御前曲輪、的場曲輪、三の丸)と西峰(西の丸、二の丸、堂の尾曲輪、井楼曲輪)に分けられ、それぞれ独立した曲輪群で構成されている。

家康が武田勝頼から高天神城を奪還したあとは廃城となり、高天神攻めの城であった横須賀城がこの地域の政治的中心として明治まで続いた。

 

●高天神城 - 搦手門から
●東峰

●中央の井戸曲輪
●西峰
●富士山

     

 

高天神城 - 搦手門から   ●印はクリックして拡大

通常は搦手門から入るほうが歩きやすいとのことで、北側駐車場に駐車して、ようやく咲きかけた梅の木が並ぶ道を通って、大きな鳥居をくぐって搦手門から入る。

石段を登り切ると小さな平場に着くが、この辺りを境に、東峰と西峰に分かれる。

鳥居をくぐって→ 搦手門

←鳥居をくぐり搦手門を入ると、すぐに石段が始まる。それほど急峻ではないが、この谷間の登城路はつづら状に折れ曲がることで視界が遮られるようになっている。

途中に三日月井戸がある。城内に存在する2つの井戸のうちの1つ。礫層を浸み通って出た雨水がぽたぽたと滴り落ちて三日月に溜まったことから付いた名称で井戸として使った。→

登城路 三日月井戸

 

●東峰   ●印はクリックして拡大 


高天神城の構造は、中央に位置する井戸曲輪を挟んで東峰と西峰に分けられるが、東峰には本丸、御前曲輪、的場曲輪、三の丸など、広い曲輪による居住空間として機能していた(マップ参照)。
→家康が展開した高天神城包囲作戦の「高天神城跡六砦」のうちの1つ火ヶ峰砦が御前曲輪から見える。お茶の産地だけあって、茶畑がいたるところに見える。

御前曲輪   ●火ヶ峰砦

本丸:高天神城東峰の最高所に位置し最も広い曲輪。「北側は急崖。南側には土塁をめぐらし、さらに的場曲輪・腰曲輪により固守されている」

「発掘調査では、城内でも最大規模の建物が見つかっていることから、城主やそれに近い身分の人々が生活していたと考えられる」

本丸 本丸南側の土塁
←大河内が幽閉されたといわれる石窟。奥行2m横幅約3mの狭い空間。
高天神城が武田氏の城となったとき、ただ一人、開城に応じなかった軍監大河内正局(おおこうちまさちか)は勝頼の怒りを買い、この石窟に幽閉されてしまった。開放されたのは7年後の天正9年(1581)3月徳川方による高天神城奪還の時だった。
大河内幽閉の石風呂:石窟   的場曲輪跡
三の丸:城の南端へ突き出した曲輪で眺望が素晴らしい。「城内の武将が宿営したところであるが、元亀2年より天正2年にかけて武田勢が来攻当時、小笠原与左衛門清有が三の丸の大将として、城兵250余騎を従えて守備した。別名、与左衛門平ともいう」
三の丸 三の丸のトイレ「かわやでござる」
三の丸から見た景色

←三の丸も周囲は土塁に囲まれている。高天神城の中でも土塁がよく残されているところ。
→谷方向にどんどん下っていくと追手門があった。北の搦手門に対して、こちらが南側の追手門。このような深い谷の途中に追手門?まだ位置や規模について不明な点が多いらしい。↓

土塁 谷方向にどんどん下りていくと↓
←近くでキジョランの種がいくつか見つかった。周囲を見渡してもキジョランが森を占領しているようではないし、周囲にはその独特の葉っぱは見つからなかったが、この深い森のどこかから飛んできたのだろう。
キジョランの種   追手門跡

 

●中央の井戸曲輪   ●印はクリックして拡大 

井戸曲輪は、高天神城のちょうど中央にある。井戸曲輪を挟んで東峰と西峰に分けられ、る。
この東西の峰は、それぞれ独立した曲輪群で構成されており、俗に「一城別郭」と言われている。一つの城郭に二つの異なる構造をもった城郭構造があることが特徴。

高天神社へ 狛犬の向こうには牛の狛犬

↑急な階段を上ると高天神社が鎮座する西の丸。天神でおなじみの菅原道真公が祀られているためか、通常の狛犬の向こうに牛の狛犬がある。

←この中央の井戸曲輪には籠城戦には絶対不可欠な井戸があった。城内のもう1つの井戸は、登城路の途中にあった「三日月井戸」。

●井戸曲輪 井戸

 

●西峰

  ●印はクリックして拡大
中央に位置する井戸曲輪から西側の西峰には西の丸から北方向に延びた尾根沿いに、二ノ丸、袖曲輪、堂の尾曲輪、井楼曲輪が配置されている。小曲輪群は堀切により分断され、さらに尾根に沿って100mにも及ぶ横堀と土塁により堅守されている。
西の丸から南方向には馬場平がある。

↓馬場平の向こうが甚五郎抜け道。
「天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、これより西方約1千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った」説明版より
この険しい尾根道は犬でももどってきてしまうことから「犬戻り猿戻り」ともいう。

●堀切の向こうが馬場平
西の丸は西峰の最高所。その西の丸から堀切を挟んで南側に馬場平。馬に関する施設ではなく、番場(見張り場)が転じて馬場となったものだそうだ。→



  馬場平 ●甚五郎の抜け道

西の丸からは高天神社の階段を下りて井戸曲輪まで戻ってから、今度は北側の二ノ丸へ。

二ノ丸へ 二ノ丸
二の丸をはじめとする西峰の発掘調査では、国内外の陶磁器が数多く見つかっている。高天神城が「戦うための城」としての機能だけでなく、城内に詰める兵士たちの「生活の場」としての機能も併せ持っていたことがわかる。
袖曲輪 ●堀切↓  
西峰は東峰と違い、西側の斜面が緩やかとなっているため、天正2年(1574)に高天神城を西峰から攻略した武田勝頼がその地形の弱点を克服するために、このように横堀、土塁、堀切など、大改修を行った。

  堀切を横から見たところ 二ノ丸堂の尾曲輪

←尾根の西側は100mにもおよぶ横堀と土塁が続く。

→高天神城西峰、尾根の北側先端に位置するのが、井楼曲輪(せいろうぐるわ)。見張りのための櫓である望楼櫓があったことから井楼曲輪と言われる。

堂の尾曲輪から井楼曲輪へ   井楼曲輪

 

富士山(富士川SA)   ●印はクリックして拡大

高天神城からは直接富士山は見えないが、途中で見られる巨大な富士山をはずすことはできない。
この日の富士山はてっぺんが雲で覆われていた。サンセット時にも雲は取れることはなかった。上りの富士川SAからは、てっぺんの雲が夕日に赤く染まっていた。
午後4時頃の富士山 午後5時近くの街の中の富士山
上りの富士川SA展望台からの富士山

 

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