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| 2025年7月22日 |
長野県佐久市にある龍岡城は、五稜郭、つまり五角形の星型をした西洋式のお城。 龍岡城は、函館と同じく幕末期に築城され、同じ五角形の星形をしているが、面積は函館五稜郭の4分の1。また、築城した藩主の松平乗謨(のりかた)が幕府の要職で忙しかったため、水堀などが未完成のまま。 |
しかも幕末(1867年)に築かれたが明治4年(1871)に廃藩置県が行われたため取り壊しとなり、わずか4年の短命なお城。 でも廃城となった後は小学校の用地となり、なんと2023年に廃校になるまでずっと使われてきたというから素晴らしい。校舎、体育館プールなどがそのまま残っている。 実際に五角形の龍岡城をカメラに収めるために、近くの山に登ったのだが、途中で出会った女性は100名城のほとんどをすでに訪れていると言っていた。すごすぎる!少しでも近づきたいものだ。 |
| 竜岡城 - マップ | 目次 | |
江戸時代末期の文久3(1863)年、第11代三河奥殿藩主松平乗謨(のりかた)公(後の大給恒)が、奥殿にあった陣屋を信州佐久1万2千石の中心地、田野口に移し、龍岡藩主となった。新陣屋築造を始めたが、松平乗謨がフランス軍学に深い関心を持っていたことから、縄張りに関してはフランスの築城家ボーバーンの稜堡(りょうほ)式城塞がモデルとして採用され、新たな陣屋は稜堡式での築城となった。 工事は元治元年(1864)に着工し、慶応3年(1867)には御殿なども完成した。田野口陣屋は龍岡城とも称されて、田野口藩の藩庁となった。しかし、乗謨が陸軍奉行、陸軍総裁、老中格など幕府の要職につき、また明治には、赤十字社の前身である博愛社を創設し、龍岡城の築城に時間的、経済的な面で、全力で割くことができなくなり、水堀や砲台などは簡略化された。結局、水堀は北西辺から南辺にかけては造成されず、砲台は南西隅だけに設置され、未完成部分が多い。 元治元年(1864)に完成した函館五稜郭址とともに、わが国城址の中でただ2つの貴重な洋式城郭である。廃藩置県後、明治5年(1872)、取り壊しとなったが、濠と石塁、御台所は残っている。 |
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●龍岡城であいの館 |
●印はクリックして拡大 |
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←であいの館:あいにくこの日は火曜日で休館日。続100名城のスタンプは外に出ているので大丈夫だが、中には入れないのは残念。 松平乗謨(まつだいらのりかた):龍岡城を築城し、江戸幕府の老中格、老中、若年寄をつとめ、日本赤十字社の前身である博愛社の創設者のひとりとして知られる。明治維新後に改名して大給恒(おぎゅうゆずる)となる。→ |
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| 五稜郭であいの館 | 大給恒(松平乗謨)碑 | |
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龍岡城の初代城主である松平氏が、三河国(現在の愛知県岡崎市)から信州・田野口に移り、龍岡城主となった縁により、令和5年龍岡城のある佐久市と岡崎市の間で、お互いのデザインマンホール蓋の交換が行われた。両側のマンホールが実際に交換されたもの。 | ![]() |
| 佐久市のマンホール | 岡崎市のマンホール |
| ●林道で戻る | |
●印はクリックして拡大 |
帰りは女性が歩いてきたという林道を歩いて帰ることにした。途中、思った以上に距離が長く、木陰を抜けるとかなりの暑さ。のどかな風景に癒されながら、途中桝形門によって、1時間以上かけて「であいの館」まで戻ってきた。 ちなみにフランス式城郭でありながら、桝形があるのはおもしろい。 |
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| 左の山道ではなく林道で帰る | 砂利道 | |
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| のどかな里山 | 桝形門跡(亀甲積の石垣) | |
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