2025年3月27日

岡山のお城見物最後の4日目は津山城。西日本有数の桜の名所でありながら、桜色に染まる一歩手前のお城を見学することになったのはちょっと残念。
2日後には桜祭りが始まるということで、城内各所で準備が進んでいるが、肝心の桜の方は早咲きの桜(神代曙)でさえ一分咲きにもなっていない。 暖冬ではあったものの、少し前には寒気がやってきていたので、全体的に開花が少し遅れているようだ。
でもお城が桜で埋め尽くされてしまうと、本来の石垣や櫓などの構造が見えにくくなるので、お城見物にはこの方がわかりやすいかも。ただ、上のタイトルの絵には桜色を少し散らして華やかさをプラスしてみた。

森蘭丸の弟、森忠政のお城は18万石の割には五重天守で不相応と言われたが、四重目の屋根瓦を取り払って、「あれは庇である」といい四重と言い張って難を逃れたという話がある。その「建前上は四重」の天守を見てみたかったものだ。

櫓と城門も非常に多かったというのに、石垣以外に遺構が全く残っていないのは寂しいが、櫓台の多さには圧倒される。中でも城内で最大規模の備中櫓は平成17年に復元されている。通常の櫓の内部は板敷か土間なのに、この櫓は全室畳敷、天上張りの居間になっていて非常に珍しく、本丸御殿の一部として機能していたようだ。



津山城 - マップ   目次

1603年、織田信長の小姓として知られる森蘭丸の弟、森忠政が美作支配のために築城開始。駿府城・丹波篠山城・名古屋城・江戸城などの天下普請や大坂の陣に、相次いで駆り出されていたため津山築城に足かけ13年を要した(元和2(1616)年に築城工事を終了)。

18万石の割には大規模な三段構えの平山城。比高約50mに位置する本丸には、五重の天守が上がり、 多数の櫓と城門を備えた。特に石垣は全長約65m、高さ7〜8mにも及ぶ大規模な石垣で、櫓の数は60棟。広島城の76棟、姫路城の61棟に次ぐ数であり、全国の城の中でもトップクラス。御殿が置かれていた本丸と二の丸では、建造物は本丸31:二の丸17棟が配置され、門は本丸15:二の丸7:三の丸11棟の門が存在し、比較的コンパクトな面積の中に、建造物群がひしめき合っていた。

森氏は初代の忠政から4代続いたが、その後跡継ぎを立てられず、松平氏が9代続き明治維新を迎えた。天守をはじめ城内の建物はすべて明治7〜8年に取り壊されたが、昭和11年に本来の3分の2の天守が建てられた。昭和20年8月、空襲の目標になるという理由から取り壊された。

 

●津山城へ
●表門〜裏中門〜本丸
●本丸
●天守台
●備中櫓など
●表鉄門、切手門から下りる

     

 

●津山城へ   ●印はクリックして拡大
偶然北西角の厩堀近くに駐車した。その向こうの石垣群の威圧感がすごい。近くの裏門から入ろうとしたら、表門から入るようにと言われたので、入口(冠木門)に至る桜並木(とはいっても桜はまだほとんど咲いていない)を歩いて行く。
●厩(うまや)堀と石垣 裏門
菜の花は満開なのだが桜の花はほとんど咲いていない。この辺は花の色が少し濃い神代曙という、早咲きの品種のようで、蕾はどれも赤く染まった状態でいつ開いてもおかしくない。「津山さくらまつり」は2日後の4月29日から始まるということで準備が進められているが、おそらく2、3日うちに咲いていくにちがいない。西日本有数の桜の名所なので、やはり満開のときに来たかった。。。
冠木門に至る桜並木 神代曙の花がちらほら
桜祭り準備中の三の丸通り 森忠政公の銅像 マンホール

 

表門〜裏中門〜本丸 ●印はクリックして拡大

表門で入城料を払って入り、城内最大の表中門を上って二の丸へ。その手前の右手の階段を上ったところからは、三の丸と二の丸の急こう配の石垣、そして備中櫓の絵になる姿が見える。これが満開の桜に囲まれていたら。。。↓

表門入口 ●城内最大の表中門
備中櫓の石垣は両側の隅が扇の勾配になっていて美しい。その向こうの折れになっている石垣は、本丸の備中櫓の隣の土塀の石垣だが、これも扇の勾配。北に曲がるとお城の西側の多聞櫓の櫓台になっていて長い高石垣。↓
三の丸と二の丸の石垣 ●備中櫓
●美しい扇の勾配 備中櫓の西側の折れと扇の勾配(スミレ) 西側の石垣、多聞櫓の櫓台
いろいろな刻印 厩堀を見下ろす 裏門の桝形
↑西側の石垣には様々な刻印が見つかった。厩堀が見えてきたら東側に曲がり、裏門からの桝形を背にして、南側を向くと裏中門がある。その背後にも様々な櫓台の石垣が重なって見え、威圧感がある。
裏中門と様々な櫓台が重なって見える
←裏中門は搦手の本丸から二の丸にいたる間にある門。門は櫓門で石垣に囲まれた桝形構造になっている。
→「門の南側の桝形部分(点線部分)は、排水溝が巡り、本丸からの水を三の丸に向けて効率的に処理していたことが分かった」
石垣(写真右マウスオーバー)にある穴は排水口。
●上から見た裏中門   排水溝(排水口)
←明治23年(1890)に、櫓の載る石垣が崩落した。石垣はその後積み直されたが、本来の高さよりも低く積み直され、西側に張り出していた石垣がなくなっていたがその後、石垣の最下段が発見され、その裏込石が表示されている。
→腰巻櫓のすぐ北側が裏鉄門。搦手に出るための門。表鉄門と同様に門扉全体が鉄板で覆われていたためこの名前がついた。
腰巻櫓の石垣(腰巻櫓跡)   裏鉄門(桝形)

 

●本丸   ●印はクリックして拡大 
  本丸と最も古い本丸東側の石垣  

↑裏門の方にやってきたので、裏鉄門から広大な本丸に入る。ここには敷地いっぱいに本丸御殿が建てられていた。70 余りの部屋があった。
最も古いと見られる石垣が、本丸東側の野面積みの石垣群。この石垣にはV字型の石段(相坂または合坂)が2箇所ある。相対型の階段で櫓に上るようになっていたそうだ。そういえば月山富田城の山中御殿にも相坂があった。↓

●粟積(あわづみ)櫓台(左側)と月見櫓

粟積櫓台から北側の展望

↑粟積(あわづみ)櫓は本丸の北東隅を囲むように存在した二階建ての櫓。粟積山の木材を用いて造られた櫓であることから、この名前がついた。
粟積櫓台の石垣はかなり急で特に石段を下りるときは怖かった。櫓台の上からは展望がすばらしい。
相坂(合坂)

太鼓櫓(モクレン見頃)
本丸の常用井戸 本丸北東側 桜祭り用の「忍者迷路」

 

●天守台   ●印はクリックして拡大 
天守は破風の付かない五重五階地下一階の層塔型であったが、建前上は四重だった。一説によれば、五重天守は18万石には不相応というので、幕府の使者が問い詰めたところ、忠政は四重目の屋根瓦を取り払い、「あれは庇である」といい、四重と言い張って難を逃れた。
明治時代に取り壊された天守の絵図 八番門を入ると天守曲輪
←天守台の南西側、西側、北西側を取り囲むように多聞櫓があるなど、天守の回りを囲って天守曲輪としている。多聞櫓から津山の町が見渡せる。

→六番門、五番門と土塀のあたりなど迷路状態になっている。
●天守の廻りを囲む多聞櫓 備中櫓北側の五番門と土塀

 

←天守台の穴蔵部分に礎石が並んでいる。

→天守台の石垣にハート型の石があるが、「愛の奇石」と呼ばれ、観光スポットになっている。

 

天守台上から(天守台)   ハート型の石「愛の奇石」(説明版)

 

●備中櫓など

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「備中櫓は本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸(いけだびっちゅうのかみながよし)に由来すると伝えられる。森忠政の娘婿にあたる、長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられる。
数多い櫓の中でも最上級の規模。天守に次いで象徴性が高く平成17年に復元された」
備中櫓 森家の家紋「鶴の丸」

備中櫓は、木造二階建て。外観は通常の櫓と同様に漆喰仕上げだが、内部は全室畳敷、天上張りで通常の櫓ではまれ。本丸御殿と廊下でつながれており、本丸御殿の一部として機能していた。

←藤棚になっているところが、長局のあった場所。長局は備中櫓と接続している単層の多門櫓。その名の通り、本丸御殿の一部「長局」として利用されていたらしい。→

備中櫓と接続している長局   藤棚の場所は長局だった
御座之間(御茶席七畳) 中央に森家の家紋の釘隠し(黒漆塗り) トイレ
「内部には御座之間や茶室を備え、建具には「唐紙(模様が刷り込まれた和紙)」を用いるなど、内部は完全な御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的な仕上げであったことから、この櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられていたと考えられている」
●御上段 狭間のある部屋

二階「御上段」の唐紙は森家の家紋 ふすまと引き手に家紋の「鶴の丸」 階段の踊り場が畳にいなっている

 

表鉄門、切手門から下りる

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本丸には裏門から入ったので帰りは表鉄門、切手門を通って下りることに。

←表鉄門は、本丸への入口にある櫓門で、裏鉄門と同様、門扉全体が鉄板で覆われていたことからこの名前がついている。北向きにくぐると、西向きに石段があり、桝形になっている。

表鉄門 ●東側にある宮川と津山の街

●切手門を通って下りる 切手門逆方向から 扇の勾配

←お城の南東方向にある「鶴山館」(移築「藩校」)の敷地からは、三段構えの石垣に備中櫓が見える。

→表門を出ると、来た時にはなかった屋台が2日後の桜祭りに向けてずらりと並んでいた。

●「鶴山館」の敷地から望む 桜祭りに向けて屋台がずらり
津山への(からの)道中で見つけた、桜が咲く前から川の上を泳ぐ気の早い鯉のぼりたち

 

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