上田城:2019年4月13日/2024年8月22日、松代城:2024年4月21日

上田城に2019年の春に初めて訪れたときは、桜満開の時で、櫓が桜の花でほとんど覆いつくされていた。その時は、お城を見学したというより、桜の名所を訪れてお花見を楽しんだという思い出しかない。

2024年の8月、今度はお城見学でやってきた。が、猛暑で外にずっといるのがかなり厳しい中、太陽から逃げるように急ぎ足で見学することになった。

上田城は天守閣もなく、石垣も少なく、見栄えのする城郭ではないが、土塁が主体で中世的な面影をよく残している城跡として貴重な存在とのこと。

そして、何より、第一次・第二次上田合戦でその名を天下にとどろかせた名城。さらに、真田幸村は後に大阪夏の陣で徳川家康の本陣まで何度も切り込んだ戦国時代のヒーロー。

松代城は2024年の4月に訪れたが、桜はすでに終わっていて、ドウダンツツジが咲いていた。桜とお城のコラボショットは残念。

太鼓門、北不明門、土塁、内堀などほぼすべてが近年復元されたもので、当時から残る建物はあまりないが、第二次上田合戦で勝利側の東軍についた真田信之がこの松代城に移り、その後廃藩までの約250年間、10代にわたって10万石という、信濃国最大の石高を誇る真田氏の居城となった。

また、松代城は、「清須会議」「殿、利息でござる!」「真田丸」他、松代城跡を部隊に映画・ドラマなど、数々の名シーンが撮影された場所とのこと。

第一次・第二次上田合戦で徳川の大群を撃退した真田氏の上田城と、その後、約250年間、真田氏の居城となった松代城を合わせてここにまとめた。



上田城 - マップ   目次

天正11年(1583)、真田昌幸によって築かれた平城。堀と土塁で囲まれ虎口に石垣を使った簡素な城。

徳川・北条の和睦により、真田昌幸が徳川家康にそむくかたちで起こった第一次上田合戦、関ケ原の合戦の前哨戦となり、真田父子が分かれて戦った第二次上田合戦で、徳川の大群を撃退し、天下にその名をとどろかせた。二度もの実戦に勝った近世城郭は全国的にも例はなく、しかも数少ない兵力で大群を退けた名城として早くに国の史跡に指定された。

関ケ原合戦のおり、真田昌幸・幸村(信繁)父子が西軍につき、上田城に立てこもって徳川秀忠軍が西へ向かうのをくい止めたが、その処分の一つとして、父子が九度山(和歌山県)に幽閉されると、上田城は破城された。

東軍についた長男の信之は城の復興はせず、三の丸に屋敷を構えて(今の上田高校)政治を行った。元和8年(1622)に信之が松代(長野市)へ領地替えとなると、小諸城から仙谷忠政が入り、上田城の復興を開始。本丸には2つの櫓門と7つの隅櫓を築くが、御殿は造られなかった。忠政は2年ほどで病死し復興は中断。その後松平氏に交代し、近世の城としては未完成の姿のまま明治維新に至った。

 

●真田三代
●二ノ丸橋から東虎口櫓門へ

●眞田神社と西櫓
●尼ヶ渕
●けやき並木歩道
●お堀
●旧北国街道

     
     
松代城 - マップ   目次

松代城は武田信玄が川中島の合戦時に最前線基地として築いた「海津城」が前身。武田信玄に命じられて山本勘助が築城したとされている。
戦国時代から江戸時代初頭までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上で重要な拠点だった。武田氏滅亡後、織田、上杉、豊臣、徳川各氏の家臣が次々と入城した。
元和8年(1622)に真田信之が上田から移封されてから約250年間、真田氏の居城となった。 三代藩主幸道(ゆきみち)のときに「松代城」と改称された。

明治の廃城にともない建物が壊されたため、長い間石垣を残すのみだったが、1981年松代城跡の建築物として唯一、当時のまま残った貴重な真田邸とともに国の史跡に指定された。その後、長野市により2004年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀が復元された。

 

●松代城
●真田邸


     

 

真田三代   ●印はクリックして拡大

真田幸隆:真田の一豪族だった真田家が武田信玄につくことにより頭角をあらわし、真田の基盤を築いた。

真田昌幸:幸隆の三男。天正11年、上田城を築く。戦略上手で、特に上田合戦など、周辺の強大な大名たち(上杉、北条、徳川など)の侵攻から領土を守り抜いた。

●六文銭が目立つ上田駅 ●浅間山  
真田幸村(信繁):昌幸の次男。九度山での14年にもわたる蟄居生活を経て秀頼の大阪城に入城。慶長20年の大阪夏の陣では、何度も徳川家康の本陣にまで切り込んだことから「日本一の兵(ひのおもといちのつわもの)」と言われた。
真田三代 戦国時代のヒーロー、真田幸村(信繁)公  

 

二ノ丸橋から東虎口櫓門へ@A   ●印はクリックして拡大 

二ノ丸橋から入る。丸が2つあって「二ノ丸」、それにカタカナで「ハシ」と書かれているので「二の丸橋」。それが人の顔になっているのが面白い。
二ノ丸橋 「二の〇ハシ」  
●4月のお堀の桜→ 同じ場所の8月の様子 4月の櫓門と北櫓と桜↓

←→東虎口櫓門をはさんで左側が南櫓、右側は北櫓。この二棟は、仙谷氏によって江戸時代に造られたものだが、明治維新後、遊郭に売られ、昭和24年に現在地に再移築したもの。
櫓門は、古写真等を根拠に平成5年度に復元したものとのこと。

南櫓と櫓門 8月の櫓門と北櫓

←2019年4月に訪れた時は、お堀に沿って桜が咲き誇っていてまさに桜花爛漫だった。桜雲に半分隠れた櫓も見えたが、そのときは桜に溶け込んだ景色の一部だった。
→真田石(高さ2.5m、幅3m)は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持って行こうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。

●堀の向こうに2つの櫓   真田石

 

真田神社と西櫓B   ●印はクリックして拡大 

真田氏の家紋:江戸時代の銭(一文銭)を横に3枚、縦に2段に並べた六文銭。亡くなった後、三途の川を渡るときの渡し賃。戦に行く際には三途の川を渡る覚悟で戦に行くということを示した。
替え紋として、「州浜紋(川の河口部にできた三角州のことで、縁起のよい紋とされる)」「結び鴈金紋(鴈は昔から幸せを運ぶ鳥として有名)」がある。

眞田神社 真田の赤備え兜
↑櫓門をくぐると、眞田神社がある。第一次・第二次上田合戦で『落ちなかったお城』ということで合格祈願、その他いろいろなことに『勝つ』ということに御利益がある。

→「このご神木の大欅は、少なくとも樹齢推定5〜600年といわれている。雷が落ちたことで、木の芯に近い部分が焼けて中央部が抜け、この不思議な形状になっている」。ここをくぐって、強運と家内安全をお願いできる。
大欅ご神木くぐり 第一次上田合戦時の真田幸村公の像
←この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じていたという伝説がある。敵に包囲されても、その抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
→西櫓のみが江戸時代(1626年)に造られた元のままの状態で残っている。全国的にも貴重な建物。

井戸(直径2m、深さ16.5m)   西櫓

 

尼ヶ渕CD   ●印はクリックして拡大

尼ヶ淵から見た西櫓と南櫓。「この上田城南側の崖下にはかつて千曲川の分流が流れていて、天然の要害であったが、崖面がもろくくずれやすい性質だったことから、洪水によって削られ、大規模な石垣が設置された。この場所を尼ヶ渕と称したことから、上田城は別名「尼ヶ渕城」とも呼ばれていた」
*3枚の写真を合成したため、石垣が湾曲していますが、まっすぐ直線です。

●西櫓 ●南櫓
尼ヶ渕から見た西櫓から南櫓までの石垣(実際はまっすぐ)

→南櫓下の石垣は、「上田城の南面を守る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれている。 中段石垣は、長雨により一部崩落したことから、修復工事を実施した。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣がなかった部分であることから、原形に基づきモルタルで修理した。下段の石垣は享保の洪水(1732年)後に設置された」

西櫓の突き上げ戸や矢狭間(南櫓)   ●尼ヶ渕の石垣
↑西櫓は本丸隅櫓。外壁は下見板、その上から軒までを塗籠としている。これは寒冷地の城に多くみられ、初期城郭の建築の様式ともいわれる。
西櫓の上の写真は、格子窓に突き上げ戸がついた「武者窓」、その下に、屋や鉄砲を放つための「矢狭間」「鉄砲狭間」がもうけられている。
←河岸段丘のむき出しになった箇所:真ん中の非常に柔らかい層(点線部分)が洪水によってどんどん削られていった跡がわかる場所。
  ●地層の出ている箇所  

 

けやき並木歩道E

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けやき並木は上田城二の丸の堀の跡。その後、昭和3年に上田温電北東腺が開通し、この地を電車が通っていた。昭和47年に電車が廃止され、現在に至る。電車のプラットフォームが残っている(赤矢印)。
このトンネルの上の橋が二の丸橋。→

●けやき並木 向こうにトンネル(二の丸橋から見る)

 

お堀FGH

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百日紅が咲く8月のお堀 ●お堀の桜 ●お堀の桜

→土塁の北東隅を切り込み「鬼門よけ」としたもの。本丸の北東の方角は鬼門にあたることから土塁を内側に凹ませている。
そういえば、2024年春に訪れた新潟の高田城も北東の角を潰して変形されているのを見た記憶がある。

●隅落とし 桜の時期

←上田城の堀は素掘りで、掘り上げた土をその内側へ堤状に積み上げて土塁としている。

→二の丸にあった3箇所の虎口のうち、東・北虎口のみ石垣が残っている。上田城主仙谷忠政は二の丸北虎口にも櫓門を建造する計画だったが、病死により建てられることはなかった。

●土塁と堀 ●北虎口

 

旧北国街道 柳町   ●印はクリックして拡大 


真田昌幸が上田城を築いた15年後の慶長15年(1598)に上田城下に北国街道が通った。北国街道は参勤交代の大名(加賀百万石など)や佐渡金山の金の通路として、また庶民の善光寺参りの参道として大変にぎわった。
この通りには呉服屋さんが25件軒を連ねていたそうだ。
←親付き切り子格子:
「二階に取り付けられた格子は、長いもの(親)と短いもの(子)があり、それぞれの本数も家によって異なる」
 
旧北国道町並み 『ルヴァン』天然酵母のパン屋さん 蕎麦屋『おお西』(発芽鴨南蛮)

←うだつ(屋根の両端に作られた類焼を防ぐための袖壁)のある家が見られる。袖壁に装飾のために屋根が付けられるが、お金がかかるためにお金持ちでないと高く上げることができなかった。『うだつが上がらない』の語源。
→上田市のマンホールは六花文(真田氏の家紋である「六文銭」を花に見立てて円形に配置したもの)とツツジをあしらったデザイン。

うだつ 上田市マンホール

 

●松代城

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←本丸の大手口の内桝形門。手前の橋詰門(高麗門)と奥の太鼓門(櫓門)で桝形を形成している。


●太鼓門前橋と太鼓門 ●石垣、お堀、前橋
→太鼓門は、本丸南側の大手に位置し、本丸内3箇所の中で最も大きい門。藩士に登城時刻を知らせたり、緊急連絡をするための太鼓が供えられていた。
良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、絵図面などから、屋根は善光寺三門でも用いられているトチ葺きで、切妻屋根の姿を忠実に再現した。↓
●太鼓門 太鼓門表側
→本丸内には、江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿があった。しかし、度重なる水害の影響により、明和7(1770)年に城の南西に位置した花の丸に御殿を移した。
トチ葺きの屋根   本丸御殿跡
←本丸搦手を守る外桝形門。手前が一ノ門(高麗門)で奥が二ノ門(櫓門)。一ノ門と二ノ門が桝形を形成している。当初はこのあたりまで千曲川に近接していたため、「水ノ手御門」とも呼ばれていた。
●本丸北不明門:一ノ門と二ノ門   北不明門二ノ門である櫓門(桝形)

←松代城で最も高い櫓の跡。絵図面では二階建ての櫓が建っていたとあり、川中島平を広く一望できたと考えられる。
大きな桜の木が植えられているが花はほぼ終わりで葉桜状態。
「この戌亥隅櫓の石垣(野面積み)は松代城内でも古い近世初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っている」

●戌亥隅櫓台   土塁埋門
本丸搦手から見ると、北東(左)に北不明門、北西(右)に戌亥櫓台、手前の二ノ丸には土塁が見える
近年、太鼓門や北不明門とともに、これらの長大な土塁などが復元されている。
東不明門前橋 ●東側の土塁
長野市リンゴのマンホール ドウダンツツジ 復元された土塁

 

●真田邸   ●印はクリックして拡大 


「松代藩真田家初代藩主・真田信之公は、元和8年(1622)に、上田からここ松代に移封された。それ以降、真田家は廃藩まで約250年間、10代にわたって北信濃10万石を治めた」

「真田信之公は戦国時代永禄9年(1566)に生まれ、万治元年(1658)まで93歳という長寿をまっとうした。松代藩主在任期間は35年に及び、この間、産業経済の振興、文化の交流につとめ、豊かな国づくりに尽くし、まさに松代藩の礎を築いた人物」
真田信之像  
九代藩主・幸教が、義母貞松院(幸良の夫人)の住まいとして、1864年に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていた。
全国でも少ない御殿建築の建物で、松代城跡の建築物として、唯一、当時のまま残った貴重な建物。
真田邸 真田家の六文銭の家紋
この真田邸にも公的な行事や儀式、接客などが行われる「表」と、生活のための私的な「奥」の区別がある。
←「表」の唐紙は武士が好んだひし形をモチーフにしている。
→「表」と「奥」との間にはふすまではなく、杉戸が立てられ、視覚的に、また心理的にも2つの空間をはっきりと分断していた。
表座敷の唐紙はひし形(奥は別の模様)   杉戸で表と奥を分断

←御殿で最も豪華な意匠である「巾着」が使われている。釘隠しが巾着の形をしているのは初めて見たが、とてもチャーミング。

→「水心秋月亭」と名付けられた庭園は、周囲の山々を借景として取り込んでいる。

巾着の釘隠し(他の鍵隠し)   庭園(部屋から見た庭園)

←←風呂場は「土間の部分に湯舟が置かれていた。右側は湯を流すことができるよう、角度をつけて板が張られている」

←トイレは周囲が畳なのはちょっとびっくり。

風呂場 トイレ(手洗いの間)

 

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