2026年3月31日〜4月1日


今回は和歌山・奈良のお城旅行。今年の大河、豊臣兄弟ゆかりのお城、和歌山城と大和郡山城、そしてその詰城である大和高取城を訪れた。

最近の春のお城見学では、桜の時期がいつも外れていたので今回は少し遅くずらした。それなのに今年は桜開花がとても早いということで心配だったが、結果的になんとかどの場所でも桜とお城のコラボに出会えることができてよかった。

和歌山城は徳川御三家の1つで、なんといっても暴れん坊将軍吉宗公を輩出したお城。さらには、今やっている『豊臣兄弟』の秀長が秀吉の命を受けて築城したお城。

天守閣は全国でもめずらしい三大連立式天守(姫路城、松山城)の1つなので見栄えがいいだけでなく、どの方向からも死角なく反撃することができる鉄壁の守りのお城。

豊臣時代、浅野時代、徳川時代の石垣の変遷、御橋廊下、多くの破風や青海波模様など装飾に富んだ天守の外観など、見どころが非常に多いため、最初の半日では廻りきれず、次の日も見学した。雨が降ったおかげで、庭石や石垣の一部に使われている「紀州の青石(緑泥片岩)」が濡れて、青緑色が一段と濃く美しく見えた。



和歌山城 - マップ   目次

天正13年(1585)、豊臣秀長は兄豊臣秀吉の命をうけて和歌山城の築城にとりかかった。しかし秀長は和歌山城の完成を見ずに大和郡山にあり、その後和歌山の地へ戻ることはなかった。
翌、天正14年(1586)に、秀長の家臣である桑山重治が城代として3万石を領し和歌山城に入城した。桑山氏は14年間の在城期間に和歌山城の本丸部分を中心に築城を進めた。
慶長5年(1600)、関ケ原の戦いで軍行のあった浅野幸長が37万6千石を領して和歌山城の城主となり、桑山氏は大和布施に移封された。浅野氏は19年間の在任中に、二の丸部分を整備させたり、一の橋門を大手にするなどその後の基礎となる築城工事を次々に行った。黒板張りだが、ほぼ現在の形に近い天守閣を建てた。
元和5年(1619)、浅野氏は安芸国広島へ移封され、徳川家康の第十子徳川頼宜が五万五千石を領して入城した。以後和歌山城は、御三家紀伊徳川家の居城となり「南海の鎮」として、幕府の西国支配の拠点という新たな役割を担うことになる。頼宜の入城の際には二千貫が支給され、入城直後から和歌山城の大規模な整備工事や城下町の拡張整備が実施された。これらの制作はその後250年間続く和歌山の繁栄の基礎となった。
1798年に黒板張から白壁となるが、1846年の落雷で焼失。天守再建は御三家ということで認められ1850年にほぼ元のまま再建される。天守閣は1935年に国宝に指定されるが、1945年7月9日の和歌山大空襲で焼失。しかし、1958年、市民の努力で復元された。

 

●和歌山城・わかやま歴史観
●大手門・蔵の丸の雁木
●表坂〜松の丸〜天守曲輪
●天守曲輪
●連立式天守内部
●西の丸庭園・二の丸
●鶴の渓、新裏坂から二の門へ
●岡口門付近
●追廻門付近
●不明門付近
●その他

     

 

●和歌山城・わかやま歴史館   ●印はクリックして拡大


←ホテルの部屋から和歌山城が一望できる。ランチを頂いた近くの市役所の『14階農園』からもお城が見える。レストラン内でビュッフェを楽しみながら窓の向こうは和歌山城の天守閣。→

●ホテルから見える和歌山城 『14階農園』入口
市役所14階から 和歌山市役所 ●市役所14階から
通りから見た夜の和歌山城 ホテルからの夜の和歌山城 「紀州てまり」のマンホール
「天守の壁の模様替えを説明するため作成されたと考えられる天守の起こし絵図。天守の壁には張り紙があり、張り紙の下には板壁が描かれている。当初、天守の外観は板壁で完成10年(1798)に白土壁になった」
→親獅子と子獅子、そして直方体の3つのパーツを組み合わせて収納できる、黄金色の金属製の印。紀州徳川家に伝来したもの。「南海之鎮」の印が11代斉順の書に推されている。
わかやま歴史館の「御天守起シ御絵図」   紀州徳川家所要「獅子紐印」

 

●大手門・蔵の丸の雁木   ●印はクリックして拡大

←一の橋を渡り、正門である大手門につながる。櫓ではなく屋根を載せただけの簡素ですっきりした高麗門式。浅野家時代に南東の岡口門の代わりに大手門となった。

↓大手門を潜ると右側の石垣上に大きな楠がある。樹齢100年以上、幹回りは約7m、樹高は約25mと城内では最大級の大きさ。クスノキは和歌山市の木。

一の橋と大手門

●一の橋を東側から見た所
大手門は「徳川御三家」(とくがわごさんけ)の一つ「紀州徳川家」(きしゅうとくがわけ)の表門で、鬼瓦は「三つ葉葵」であるが、その他の瓦は裏紋の「三つ鍬形」になっている。歴史館の方のお話では、実際はこの「三つ鍬形」紋は瓦には使われていなかったらしく間違らしい。が、まだ修正できていないということだった。

三つ鍬形紋 大楠
←大手門を入った最初の虎口が一中門。政務の中心を担う二の丸の入口であり、本丸へ通じる表坂への分岐点に位置する最重要な門。東側北面は石材を多角形に河口して積む亀甲積石垣で見栄えをよくしている。
→門の右側面は、切込接布積だが、右は和泉砂石、左は花崗班岩で、大きな鏡石が置かれている。

一中門跡の亀甲積石垣   一中門後の石垣(一中門の枡形)
→蔵の丸は一面桜の木が植えられていて花見でにぎわっているが、お堀側には150mに渡る大規模な雁木がある。その向こうは堀。雁木が広いので、兵が一斉に上ってすぐに守りにつくことができる。
  雁木 蔵の丸はお花見広場

 

●表坂〜松の丸〜天守曲輪   ●印はクリックして拡大

←表坂から天守に向かう。この道は松の丸跡を通ることになる。

→松の丸南東隅部に置かれた松の丸櫓台の石垣:花崗岩の切込接ぎの布積みで、扇の勾配と呼ばれる上部の反りを持つ。しかも高さ14mもあるので、城内でも目立つ存在。徳川期の石垣。

表坂 松の丸櫓台の石垣(別角度から)
←表坂から天守に上る途中、高石垣の松の丸櫓台の上に立つと、ちょうど枡形虎口のところが見下ろせる。

↓岡口門のあたりは満開の桜で覆われたお花見広場。左側には土塀とお堀が見える。
実際の枡形虎口を上から見ると→ 松の丸櫓台から枡形を見下ろす
松の丸跡の石垣 岡口門とお堀 岡口門とお花見の広場

↑→松の丸跡にある石垣は古い。角石が直角より鈍角の鎬積み。岩山に合わせて石を積んだ豊臣期の石垣。

→→礎石は門があったことを示すが、その門がいたるところにあり、鉄壁の守りであったことが見えてくる。

●鎬積み 表門跡の礎石と青石

←天守が見えてきたが、突き当りの石垣がすごい。鉄壁のディフェンス。

↓天守閣の方向とは逆方向には、本丸御殿跡がある。

●天守が見えてきた 石垣  
和歌山城のある虎伏山はラクダの背のように東西に峰がある。東側には本丸御殿跡がある。関ケ原の戦いの後に和歌山城主となった浅野幸長は城の大規模な改築を行い、西側の高い峰に現在の形に近い黒板張りの天守を築いて本丸とし、東の低い峰に御殿を建てて二の丸とした。元和5(1619)年に徳川頼宣が入国すると、全体が本丸となり、東の峰は本丸御殿と呼ばれた。
この上が本丸御殿跡   赤丸部分が本丸御殿跡
↓和歌山城が立地する山は、海から見ると伏せた虎の姿に似ているとのことから、虎伏山(とらふすやま)と呼ばれている。この話にちなんで、寝そべっている虎の姿をした伏虎像(ふっこぞう)が置かれている。
●本丸御殿跡から見た天守 裏坂を下りてくる  
→裏坂を下りてきた向かいの石段の上にエノキの木がある。その根っこの一部が隙間からはみ出し、角度によっては階段をよじ登っている人型のように見えるということで「ナニコレ珍百景」で見事「MV珍」に選ばれたそうだ。
  階段をよじ登っている人型 伏虎像

 

●天守曲輪   ●印はクリックして拡大 
天守曲輪の南東隅に建つ連立式天守。三重三階天守、北東に玄関を付属した小天守と台所、北西隅の乾櫓、南西隅の二の門櫓と二の門(楠門)を多門櫓で連結していた。虎伏山山頂(48.9m)に構えられた天守は高さが約23.4mあり、最上階からは和歌山市が一望できる。
●大天守と小天守   北側から見た連立式天守

→天守台石垣:天守台の石垣は、秀頼が弟の秀長に命じて築城した際に積まれた和歌山城のなかで最も古い石垣と考えられていて、結晶片岩による野面積で、各所に宝篋印塔などの転用石が多く見られる(下の赤丸部分)。
↓通常直線となる隅角に優美な曲線の石落としを付けている。

↑連立式はただ美しいだけでなく、四方の敵を監視し、それぞれの建物が連携し、攻め寄せる敵に対し、死角なく反撃することができる、鉄壁の守りで固められた要塞。
   ●天守台の石垣  
天守と小天守:最上階に長押形(なげしがた)を付けたり、比翼入母屋破風の上重に唐破風が一つ置かれているのも幕府建築の特徴。さらに多くの破風を採用し、妻壁には銅板張の青海波模様を入れ、一階には袋狭間の石落が配置されており、入母屋造りの出窓、最上階の回り縁と高欄など、非常に装飾に富んだ外観。
転用石と袋狭間の石落   ●装飾に富んだ外観
青海波は同心の半円を連ねた形で、波を意匠化した文様。サザン朝ペルシャの文様が中国を経由して伝来したもので、江戸城富士見櫓や弘前城天守でも見られる。
鬼瓦は三葉葵紋。
●天守曲輪下段から見た天守   銅板張の青海波の妻壁
←天守二の門から連立式天守に入る。正面の石垣に鏡石のような大きな石がある。これも青石のようだ。
●天守二の門と二の門櫓 これも鏡石か?  

→天守へは、小天守に設けられた玄関を経由して入る。防衛には不利となる開放的な玄関。
玄関上部の唐破風は銅板張で玄関の格式を高めている。鬼瓦には三葉葵紋を使用するなど、御三家の権威を示していた。

連立式天守内に入ると右手に天守 小天守と玄関

北西の乾櫓 南西の二の門櫓 姫路城でも見た滴水瓦がついている

 

●連立式天守内部   ●印はクリックして拡大 


←左図のように天守曲輪の平面が四角形ではなく、変形ひし形をしている。

小天守から大天守に入り、1,2階は展示室、最上階の3階は展望室。その後、多門を通り、二の門、二の門櫓、乾櫓、そして御台所から出る。

●連立式天守マップ ●西側から連立式天守がよくわかる
最上階から:西側から見ると連立式天守であることがよくわかる。 乾櫓の向こうに紀の川河口が見える。晴れていれば、遠くは淡路島、さらには四国まで見えるそうだ。 北側の眼下には二の丸跡と、御橋廊下が見える。 東側からは向かいにある本丸跡が見える。 南東側に岡口門とお堀が見える.。
  北側に御橋廊下と二の丸跡 ●東側に本丸跡が見える

→天守の次は、多門を通り、二の門、二の門櫓、乾櫓、そして御台所から出る。

↓台所には埋門が設けられていて、内部から下りる階段があるが立ち入り禁止。埋門へは外側からも入ることはできない。

南東側に岡口門とお堀が見える   天守から多門を通って二の門へ
埋門(うずみもん):天守閣北側に存在するトンネル状の門。下の水の手郭の井戸(黄金水)で汲んだ水を天守閣に運び入れるために設置されたと考えられている。また、もし城が落ちた場合には城主はこの門から脱出した。南側の水の手門から山腹に出て、不明門を経て寺町へ逃れるようになっていた、との説明もある。
埋門へ通じる 外から見た埋門  

 

●西の丸庭園・二の丸   ●印はクリックして拡大
西の丸庭園を囲む土塀の瓦:この三つ鍬形紋は大手門と同様に、瓦には使われていなかったらしく間違らしい。が、まだ修正できていないと、わかやま歴史館の方が話してくれた。
西の丸庭園へ 三つ鍬形紋  
虎伏山の急峻な地形を巧みに利用し、精緻な石組を配した池泉回遊式庭園で、城の内堀を池に見立て、庭園の形式に取り込んでいるのが特徴。江戸時代初期に作庭され、庭石には「紀州の青石(緑泥片岩)」がふんだんに使われている。雨が降ると一段と青く見えるので他の石と区別しやすい。
●西の丸庭園 結晶片岩(紀州青石)
←巨石の滝石組の石は、紀州産の緑泥片岩(青石)が多用されている。

→鳶魚閣(えんぎょかく)と御橋廊下(おおはしろうか)
●紅葉谷橋と滝組   鳶魚閣(えんぎょかく)と御橋廊下

御橋廊下は西の丸と二の丸を結ぶ藩主専用の廊下橋で屋根と板壁を備えている。高低差のある曲輪間に約11%の勾配で架けられためずらしい造りで長さ26.7m。
二の丸から廊下を渡って下ると足が痛くなりそうだったので、西の丸から二の丸方向に上った。
御橋廊下で西の丸から二の丸へ ●御橋廊下と天守
御橋廊下の窓から天守 御橋廊下 御橋廊下の柱の礎石
二の丸は、紀州藩の政治を執り行う場であり、藩主の生活の場でもあった。多くの御殿があった場所。
●二の丸跡から天守を見る ホテルからズームで御橋廊下

 

●鶴の渓、新裏坂から二の門櫓へ   ●印はクリックして拡大 

←鶴の渓の石垣:砂の丸から二の丸へと通ずる道にある石垣で、豊臣期の野面積み。和歌山城に特有の青石(結晶片岩)を自然石のまま積んだ野面積。
↓庭園跡から南側に傾斜を描くようにして石垣が高く積み上げられている。下部は結晶片岩(通称・青石)を加工せずに積み上げた野面積み。上部近くになると、整然と積まれていて、砂岩を加工して積み上げた打込接。
鶴の渓(石垣の上にヤマブキの花)) 鶴の渓の青石の算木積み  
←石垣に、自然の岩盤がむき出しになっているところ。 このような場所は他にもあり、これは和歌山城の築城地である虎伏山が、岩山であることを示している。
鶴の渓(つるのたに):関ヶ原の合戦で功績を挙げた浅野幸長が、和歌山城に入って整備した場所の一つで、石段の南側の窪地は庭園跡と言われ、当時、この渓に鶴が舞い降りていたそうだ。
自然の岩盤がむき出し 鶴の渓
←新裏坂から上ると天守曲輪の二の門櫓の南西角に着く。
二の門櫓下石垣の隅角部:豊臣期築造で、隅角部は直角ではなく鈍角となる鎬積(しのぎづみ)。角石の短辺が内側に入る痩せ角で、文禄・慶長期の石垣の特徴。
新裏坂から登城(石段が青石) ●新裏坂から上ると二の門櫓に着く  

 

●岡口門付近   ●印はクリックして拡大 

岡口門:櫓門。浅野期の初めころまでは、南東側のここが大手門だった。北側に続く土塀とともに江戸時代の現存遺構。現存土塀はこれのみ。
土塀には敵を迎撃するための銃眼(狭間)がある。お堀側からもこの土塀が見える。→

●岡口門と天守 ●内堀側から主郭部をの望む↓
綺麗な葉っぱ(春はクスノキの紅葉) 街路樹のクスノキ 土塀に銃眼
↑クスノキは和歌山市の木であり、お城の隣の道の街路樹にもクスノキが植えられている。春が紅葉の時期だが、広葉樹の紅葉のように木全体が赤くなるのではなく、一部の葉っぱが赤くなって落ち葉となるが、その落ち葉もデザインが美しい。 ←右側:浅野期の左岸の割石を積んだ打ち込接の石垣で一部横目地が通る。
左側:徳川期の改修による、切込接布積。
●蔵の丸東面の石垣  

 

追廻門付近   ●印はクリックして拡大 
追廻門:西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置する。櫓はなく、柱に本瓦葺きの屋根を載せ石垣に挟まれた高麗門形式の門。現存するお城の門では珍しく朱色に塗られている。岡口門とともに空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構。陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられる。門を出た城外に馬場があり、馬を追いまわしていたことから名付けられた。
追廻門 護国神社の鳥居
刻印:和歌山城全体で2110個の刻印があるなか、新裏坂下の西方に続く石垣に854個と約4割が集中している。
お城の石垣でこれほどの数や種類の刻印を見たのは初めて。
新裏坂下の石垣にある刻印 刻印
新裏坂下の石垣:浅野期に積まれたと考えられている打込接の石垣。石材は和泉砂岸で浅野期の石垣の特徴である刻印が数多く見られる。シンプルなものから鳥の羽のような凝ったデザインのものまで多様なものがあるが、なんのために刻印されたかについては、はっきりとはわかっていない。
  刻印 刻印

 

●不明門付近   ●印はクリックして拡大 




←↓ 徳川頼宜入城時、この付近で虎伏山南西地続きの砂丘(岡山)を掘り割り、高さ約14mの高石垣や南西側の屏風折れ高石垣を築くことにより、城の南西部の防御を固めた。
南西側の砂の丸跡の高石垣の「折れ」 南西側の砂の丸跡の高石垣の「折れ」  
→徳川吉宗像:吉宗は神殿開発や倹約を進めて当時赤字続きの紀州藩を立て直した。享保元年(1716)にはその手腕を評価されて江戸幕府8代将軍に就任し、享保の改革を行った。

↓南の丸の不明門跡の脇にある高石垣は、松の丸櫓台の石垣と同様、城内一の高さ(14m)を誇る。徳川期の石垣で、隅角も築石部も整然とした切込接布積。
●南西角から見た連立式天守   徳川吉宗像

不明門(あかずもん)跡:江戸城で言うところの平川門のような役割。通常は閉じられたままだったため、この名がついた。板や罪人などを出す不浄門として使われたとされ、名古屋城や岡山城などにも同名の門がある。

この辺りは砂丘で水堀が掘れなかったらしく、高石垣が築かれている。見事な勾配。 →

●不明門跡の脇にそびえた高石垣

不明門脇の石垣の扇の勾配
→三年坂は和歌山城とその南側に続く岡山砂丘の間を通る切り通しの坂で、紀州初代藩主徳川頼宣の時代の1621年に城を拡張する際に、掘り割って造られた。当時は今よりずっと狭く急な坂だった。三年坂堀は、大正十三年から翌年にかけて埋め立てが行われたが、それ以前は水堀であったそうだ。
  三年坂堀 三年坂から見る天守

 

●その他   ●印はクリックして拡大


総本家駿河屋善右衛門の本ノ字饅頭「室町時代中期の1461年、現在の京都市伏見区で饅頭屋として創業した。江戸時代に、味を気に入った初代紀州藩主となる徳川頼宣に従い、京都から駿河(現静岡県)へ移ると、1619年には紀州入りし、現在も本店がある和歌山市駿河町付近に店を構えた」 ほんのりお酒の風味があり美味しかった。

和歌山ラーメン   『駿河屋』の本ノ字饅頭(『駿河屋』)

 

戻る